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生きることは呪いである。


生まれてしまったらもう生きなくてはいけない。
これは生きるものに課せられた使命。命題。


この呪いを解くには『生ききる』ことである。



自殺を赦さない。
殺人を赦さない。

その道にはみ出してしまえば 呪いの枷はまた尚 重みを増す。


生きることからはみだすことを辞さない。

辞さないのは生きることをはみ出すことである。はずなのに。


“生き方”すらもはみだしてはならないとする。

呪いは勝手に干渉する。



自殺を許さない。
殺人を許さない。

“生き方”の呪いをかけた、全てのモノを殺そう。

“生き方”に呪いをかけ続ける、全てのものを殺そう。



“生き方”を許そう。

“生き方”を殺し、ただ、“生きること”を以って。

呪い殺そう。
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[2013/09/25 00:52] | 拙稿
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[外部リンク] : [http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20130831-00027729/:title=『宇多田ヒカルさんの発言でメディアが考えるべき「精神の病」の問題』(Yahoo!ニュース)]

でもこれは難しいとしか言えない。
そら、メディアがマスゴミがーとか…それはあるけど、“一般的に”っていうか、“社会的に”も、フツーに齟齬が生じている問題だから。

これは忌避しがちだもの。


精神疾患もだけど、ほかにも特定疾患で一目で分からないような難病のもので 本人は苦痛だけど全然それが伝わらなくて怠けてるだけ とか思われてるものもあるしさ。


メディアの所為にばかりは出来ないんじゃない?これについては。

取り上げてほしい側面もあれば、そっとしといてほしい って気持ちも少なからずあると思うから、敢えて大手メディア様には的を外してほしい って気持ちも無くは無いと思う。
早い話、期待したくないから。

こういうのをワイドショー内包型のニュースでコメンテーターやタレントに軽々しく語ってほしくない ってのもあるかもしれないし。

はてブのブクマコメントにもあったけど、可能なのはNHK・Eテレとか、日テレのNNNドキュメントくらいかな っていう。
ただバリバラはどうしてもバラエティ色は必至なので(良くも悪くも)裁量が難しいかなー。
(前身の“きらっといきる”だったら可能かな)


当事者のことと、家族のこと。
それが大変だ、っていうコトを分かってほしい。つか先ず知ってほしい ってのがあるよね。それは同情なんかじゃなく。ただ知ってほしい。

家族とかさ、身近な人以外にとってはどうせこれは他人事なんだもの。
だったら単純に広く認知してもらって、ともに生きる家族の精神的な負担を軽減できるような感覚を養うっていうさ。

ましてモデルケースなんて無いんだし。
色々知るしか無いんだろうね。

で、仮に知る経緯の中で間違った認識をしたとしても、それを大勢で叩いたりしてはいけないよね。そうやって善意で訂正を促すことを強制させるのはただの攻撃になって余計な偏見になる。

正解の無いものを問うているのに正解を押し付けるのは意味が無い。

そして知ることが出来ても、どうしても理解できない人が存在することを認めなければいけないだろうし。(←これ苦しいけどさ。)
嫌うのも自由なんだしさ。

知ることから始めるしか出来ないですよ。
感情や、感情を促すことをどうこう言うのはまた次の話。別の話。

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[2013/09/02 05:09] | 拙稿
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(書きながら考えてたりするので文は色々おかしいところ見られます。(一応の注意。))

生きていくための技術の話ではなくて、生きること自体の技術の話。
だから、どれだけ生きていくために技術が自分自身に備わっていたとしても、生きること自体の技術が自分に備わっていなかったらどうしようも無いな ってふと思った。

…のは、技術信仰っていうか、“人は物”だと、“人は都合や利便や条件ばかり人に求める”と再三言ってきてることに由来するんですけどね。

たとえば“生きる力”とも言う。“生きていくための力”の話ではなく。
たとえば生活していくために身銭を稼ぐとか、そういう話ではなく。

仮に、身銭が稼げない状態になったとしても、“生きる力”がある人は どんなに地べた這いずり回ってでも生きていくでしょうし、“生きる力”が無い人は身銭が稼げなくなるとなったら絶望し死を考えるかもしれないなと。

“生きていくための技術”が無くなったら、“生きる”ことすらも放棄する。



今、たぶん生きている人の大半は、生きるために…働くために・稼ぐために必要な技術を磨くことばかりに終始していて、生きること自体に力をつけるコトは何もしてないよなー ってね。

…うん、いまさら何を?w ってツッコミあるでしょうけどw

“勉強”とかも外付けの技術でさ。学校で必要なのは 年齢と地域だけで集められたすし詰め密室空間を過ごすという義務を、如何にやり過ごすか っていう“生きる力(自体)”のほうがきっとメインの<学ぶこと>でしょうよね。

キッツイよねー。
大人になってもスキルを(外付けの条件を)比べあう必然が待ってるのにさ。

磨くことで光ればいいけど、磨くことで磨り減って消えてしまうこともあるんだよ。
石ころの原石がダイアモンドじゃない石だってたくさんあるんだよ。


だから“役割を果たす”ってコトも疑問だったんですよ。
大きな言い方をすると、『誰しも生まれたからにはお役目がある』とか偉ソーな人は言うやんね。
じゃあ「役割を果たしてさえいればいいのか」と。外付けの技術が備わっていればいいのかと。

外付けの技術を使って、自己成長だと自身を磨いて生きるために磨耗する。それも“勉強”だ?と?

生きるために…稼ぐために心身疲弊させて生きることの何が生きるための行為なのかと。

合わないんですよ。
だから合わないきっとそれは“役目”じゃない。
“役割”を重点してて(客観判断を優先して)自分という“役”になれてない。自分に成(=な=為)れてない。


で、ここで“天職”の話になってもいけなくて。

生きること自体の力が無いと。

欲望のままの子孫繁栄が素晴らしいのか、ホルモンを刺激するものがあればいいのかとか。弱肉強食なんだから弱者は死なんてとっとと受け容れて、弱者であることを嘆いて鬱になること自体が無意味だとか。
人間であっても ほかの動物のように弱者を食い散らかすのが生きる力だ本能だ とか、
そんな盛りのついたサルみたいな極端に振れる思考しか無いのか。と。

…そんな“他者”をあまりに意識した時点で“生きる力”はかなり脆い。


なにより自分を満たす行為が先に。
“外”に合わせるんじゃない。自分に合わせるために。

生き残りをかけた戦いに参加なんてせずに。傍観もせずに。

あー…ジャマなのは見栄とかさ…自尊心が要らないのかな…。

(思いついたまま書いてましたので文章とっ散らかってました。でわ。)

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[2013/07/11 00:29] | 拙稿
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あえて弱い立場でいる、あえて弱い立場で在りたがる
という話。
そしてそれを自分で言いたくなったりもする話。


たとえばそれが成長や自己鍛錬を阻むものであったり。「どうせ~」とただ惰性で暮らしたりするもので。
や、惰性はいいんだけど、何もしない・しようとしないのに、ただ文句ばかり言うような立場で居たがるというか。

なぜなら上の立場になったらなにかしら批難されるから。ただ“上の立場”というだけで…嫉妬や羨望も含んでるんだろうけど…それだけで批難される。
普通にやることただやってるだけでも、上の立場…まぁ、上の立場っていうか羨望の対象となる人は…たとえば夢を叶えた人とかもさ。「それが出来て当たり前」とされてしまったり。
『その立場の人なのに こんなことも出来ないの?』と言われてしまったり。

その“立場”、その“役職”の人だから これくらい出来て当然じゃん、なんでそんな当たり前のことが?とか。
いや、そんな理由付けなんて必要ないんだけどね。有名なだけで批難されるようなものだし。
有名人…芸能人は叩かれて当然だ なんてね。なんかアイツ気にくわねぇな○ねよ とかさ。


他人を攻撃する理由は攻撃されてると思う思い込み。
過剰に自分に関心を及ばせすぎてて窮屈になってるような。でもそれは自分の所為なのに、相手の所為にしたがる。
被害者の立場を取っておいたほうが攻撃しやすいから。

自分は弱者である。被害者である。そう言うことによって、相手を攻撃する。
受け身でありながら攻めることを厭わない。受け身であることで有利に攻める。自分を蔑みながら、そんな自分にしたのはアンタの所為だ と。
ほんとは一人でいることがこわいから群れたり、ほんとは弱いから肩肘張って威嚇したり。弱いから強がる。
弱さという免罪符を手にして被害者ぶったり、正義ぶったり常識ぶったり。

こうして立場を選んでるのは自分なのに。受動的であることを採ってるのは自分なのに。被害を被ったと言い。また、それは罪であると断罪したがる。この立場を無意識に採りたがってしまう。

ずっと自分が行ってきたことは善であるからと。正義の立場になりたがる。習慣。



………別に誰がどうこうというコトを批難してるんではない。
少なくとも私自身も含めて、そうして誰かの所為にして生きてる限り、生きてても面白くないのは明白だな と思った。

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[2013/06/20 00:13] | 拙稿
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2013年6月8日付けの ほぼ日 今日のダーリンより、
(以下、引用)

 ・「ものごと」をつくっているときに、
 よく陥ってしまいがちなのは、
 「やりくり」が仕事だ、と思いこんでしまうことだ。

 前はこうだったから、次はこういうことだろう。
 ここは、こういう意見があったから、こうしよう。
 これをこうすると、少し節約ができる。
 おっと、あの人がこれだと怒るかもしれないよ。
 これ、じゃまになりそうだなぁ
 ‥‥という具合に、ああでもないこうでもないと、
 条件やら都合やらが、山ほどあるわけです。
 それを「やりくり」するのは、なかなか大変ですよ。
 あちらを立てたら、こちらは立たないし、
 帯に短くてもたすきには長いし、
 時間を何日かけても、何人で考えてても、
 なかなか「やりくり」は困難だし、完成しない。

 だけどそれなのに、「やりくり」は、
 価値やら魅力やらをつくるわけじゃないんだよね。
 「それいいね!」って人がよろこんでくれるのは、
 価値や魅力があるからなんだ。
 「いやぁ、よくやりくりができているから、いいね」
 ということは、ほとんどないと思ったほうがいい。
 
 条件や都合の調整がテーマみたいになってるデザインは、
 つまり、価値を増やしてないんだ。 
 それは、「あちらを立てれば、こちらが立たず」の、
 両方を立てなくするようなことなんだ。
 コピーだって、企画書だって、商品だって、
 サービスだって、人間関係だって、なんだって同じ。
 「いいねっ」「おもしろいね」「すてき」
 という胸の高鳴りと共に発せられるようなことばが、
 つい湧いて出てくるようなことが、価値なんだよね。
 
 やっぱり、「すてき」ってことが、稼いでくれるんだ。
 「やりくり」の仕事も、もちろんあるんだけど、
 「やりくり」そのものが価値だと思ったり、
 仕事なんだと思わないほうがいいよね。
 あちこち見渡してごらんよ、やりくりの結果が、
 街に(そして倉庫に)あふれ返っているから。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくの仕事は、立派なやりくりをぐちゃぐちゃにすること。


(以上、引用)
(文中、文字に色付けしたのは無臼です。)


基本的な人間関係というものを、『“条件”や“都合”の補完』としか思えてない私としては ちょっと響く言葉だったので。
『条件や都合』にしか価値を見出してない。『成立』することだけが全てになってしまってる っていう。


対称的な表現として、
胸の高鳴りと共に発せられるようなことばが、  つい湧いて出てくるようなことが、価値なんだよね。

ってありますけど、私が色々感情をこじらせちゃってるからか、あまり感情を大切なものだと思ってないんですよ。
感情っていうのは『(物事や関係を)成立させるためにジャマなもの』もしくは『“成立”を優先に置いて利用するのが感情』 っていうような。


ほんとうは人の感情をうつようなもの・ことが重要なんでしょうけど、それがあまりにも個人の域に留まりすぎてそこから出ない。あまりにもビジネス的な薄い感情のやりとりでしかない。

“うまくやりくりした結果”だけ。

そう表層だけ。
湧き上がる感情の源泉を見つけていない。
ただ間違いやすいのが、湧き上がってきた感情が、“胸の高鳴りと共に発せられるようなことば”が、
“うまくやりくりできた”ことの達成感による高鳴りでは、全くの見当違いになってしまうのだけど。

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[2013/06/13 00:05] | 拙稿
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