100分de名著 パスカル パンセ 『第4回 人間は考える葦である』を見ました。
司会・島津有理子アナウンサー
伊集院 光
講師・鹿島茂(フランス文学者・明治大学国際日本学部教授)
ゲスト講師・福岡伸一(分子生物学者・青山学院大学教授)
以下、番組内容をほぼテキスト化。(文脈オカシイとこあるかもしれませんがご了承下さい。)
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冒頭VTR・パスカル【人間の理性には限界がある。 私たちはそのことを 肝に銘じるべきだ。】
ナレーション:「人間は決して 驕ってはならない。 そう語ったパスカルの思想には今こそ噛みしめる価値があります。」
島津:「福岡さんから見たパンセの思想についてどのように?」
福岡:「今 科学万能の時代ですけども だからこそ パスカルの世界観というか思想を もう一度再評価すべきなんじゃないかと思っています。
17世紀…パスカルともう一人…キーになる人物がいたんですね。それはデカルトという人物なんですね。」
デカルトについて
島津:「 『我思う、ゆえに我あり』と聞けばデカルトだと、みなさん聞いたことがあるのではないでしょうか」
◎パスカルに対して、 デカルトの名はNG。
鹿島:「そうですねぇ、デカルトっていうのはすべての面で対照的な存在で、やっぱり両雄並び立たず というか。すべての面で考え方は逆ですね。」
『パンセ』断章77より【私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できることなら神なしですませたいと思っただろう。】
島津:「デカルトは許せないって、パンセに書いてあるのが面白いですね。(笑)」
伊集院:「どこが違うのかという…」
島津:「こちらに簡単にまとめてみました。」
島津:「このように正反対のことを言ってるんですね」
島津:「そうしたパスカルの思想が、福岡さんは今 何故大事だと思われるんですか?」
福岡:「17世紀にこういう考え方が出てきたあとですね、ま、その上に 私たちの近代社会、現代社会が 成り立ってるわけですけども、私たちは デカルトの考え方を採用して パスカルを捨てた っていうふうにみなすことができると思うんです。」
伊集院:「今までは」
福岡:「はい。現在は。 デカルトの考え方は…この世界は全部 因果関係で成り立ってて メカニズムとして理解できる。それは私たち生命体でも 精密な機械のようなものだとみなすことができる。だからその因果関係を解き明かせば、生物だってこの世界観だってメカニズムが分かり、それを制御できる。…っていうふうに考えるわけですね。 えー…その考え方の中にはですね、やっぱり自然とか生命に対する ある種の謙虚さが欠けているんじゃないかと思えるんですね。」
島津:「『すべてを人間が制御できる』っていう考え方」
福岡:「メカニズムを追求していけば、世界の理解に達せられる っていうところにですね、ある種の 行き過ぎた傲慢さみたいなものが、現代社会には出てきていると。」
伊集院:「ま、たとえば もの燃やすとCO2が出るけど、これくらいのバランスで草木を植えたらきちんと循環するんじゃないか みたいなことを計算する。計算して できるんじゃないか ってことをチャレンジしてるってことは ま、 ある種 デカルト的っていうか。」
福岡:「世界がものすごく複雑で、よく分からない。 しかし、その中には精密な因果関係があって、それを突き詰めれば 必ず世界が理解できる …っていうのがデカルト的な世界観だと思うんですね。
でも、パスカルは 必ずしも、合理的な因果率をつめただけでは全部のことはわからない。」
伊集院:「そうすると僕はデカルト的な気がします。知らないだけで 絶対解明できる気が どっかで してるんですけど。 それはまさに 最先端の科学を研究されてると とてもじゃないけど説明できないものも出てくるもんですか?」
福岡:「たとえば 私たちは受精卵から出発して それが分裂して あるものは脳細胞になり あるものは心臓の細胞になり あるものは皮膚の細胞になる っていうふうに分かれていって、人間というものが出来ますよね。
そのプロセスっていうのは 全部プログラム化されている っていうふうに考える考え方があるわけです。 しかし 一方ではですね その場その場でね、臨機応変に色んなことを細胞が相互作用で空気を読みあって発生的にできている っていうふうに見るほうが、ほんとうの自然の見方としてね、正しい場合が多々あるんですね」
鹿島:「パスカルがそれとほぼ同じことを言ってる言葉があるんですが『理性の最後の行動は 理性を超えるものが無限に存在することを認めること』と言ってるんですよ。」
島津:「理性の行き着いたところには、それを超えたものがある っていうことを知る。っていう。」
鹿島:「そう。超えたものがある っていうだけじゃいけない。超えたものがある ということを知ることがまた理性であると。これがパスカル的な言い方なんだけど。」
伊集院:「ある意味 科学が万能ではないってところまで理解することが科学だよ。みたいな。」
鹿島・福岡:「「そういうことです」」
ナレーション:「さらにパスカルは、私たち人間もまた 理性では割り切れない存在であると考えました。 福岡さんが好きな言葉があります。
【人はみな変わる。過去の自分は、もはや同じ人間ではない。】(『パンセ』断章122より)」
福岡:「これは非常に鮮やかな、『我思う、ゆえに我あり』に対するアンチテーゼだと思うんですね。 えー実際ですね、現在の生物学はこの言葉を再発見してるんです。実は、私たちの体っていうのは 自分の体は自分のものだと思っていますけども、細胞のレベル、あるいは細胞のもっと下の ミクロな分子のレベルが ものすごい速度で 合成と分解を繰り返して 日々 更新されてるんです。消化管の細胞なんか2・3日で交換されてしまいますし、脳細胞ですら中身は入れ替わってます。だから今日の私は 明日の私とは違うし、昨日の私とも違う。一年も経てば 私たちは 人間は物質レベルでは入れ替わっている。だから 私たちが『自分は自分だ』っていうある種の同一性と言いますか、一貫してない っていうふうに よく怒られますけども、実は私たち自身がどんどん更新されているんで、自己同一性とか一貫性とか 自己実現というのは、ほんとうはね ある種の幻想だっていうこと(に過ぎない こと)をこの言葉は言ってるんだと思います。」
伊集院:「ちょっと脱線するかもしれないんですけど、『我思う、ゆえに我あり』に対するアンチテーゼだとすると、すいません 『我思う、ゆえに我あり』のほうは どういうふうに理解をすれば…」
福岡:「『我思う、ゆえに我あり』というのは、何がどんなに変わっても 私というものは 私自身は同一性を保っているから だから 私というものは実在している という根拠にしているんですよね。」
伊集院:「真逆ですよね」
福岡:「でもその 私自身も、絶え間なく変化しているので、記憶だって塗り替えられている。 自分が自分だって思ってるその 同一性だって常に揺らいでいる っていうことをパスカルは教えてくれてるんじゃないかと思うんです。」
伊集院:「でも分かりますよ。長いことラジオやってると、5年前に言ったことと違うじゃんか って、10年前に言ったこととそれ同一性とれてないじゃないか って言われたりするんですけど、考え方としてはいつも、まぁ、過去に僕がその女の人をどんなにキレイと思ってて、現在の価値の基準でキレイじゃなくても しょうがないよね そういうもんだから って思う。」
鹿島:「それまさにパスカルが そういうこと言ってるんです。『彼女も昔の彼女ではない 私も昔の私ではない』そういう まんま 言ってます。 変わってずっと変わるのがいいんだ と 当たり前と。」
伊集院:「なるほど。それこそが人間なんだよね という。」
ナレーション:「自然も、社会も、人間も、偶然に左右されながら変わり続けている。すべてを知ることはできない 未来のことも誰にも分からない。 だからこそ人間は驕ってはいけない。絶望の淵にあっても 希望を捨ててはならない。パスカルは私たちにそう語りかけているのです。」
◎パスカルなら現代社会をどう見る?
ナレーション:「あらゆる難問(原発事故、金融危機)に直面する現代社会。ここからはパスカルの思想をヒントに 私たちが今後どのように生きるべきかを考えていきます。」
島津:「福岡先生、この問題にこそパスカルの思想が活かされるのではないか というもの なにかありますでしょうか。」
福岡:「そうですね、昨年私たちが目の当たりにした 原発の安全性の問題。これはですね 私たちがこのシステムをメカニズムとして捉えて それを合理的に突き詰めれば 絶対安全なものがある っていうふうに、これはほんとにデカルト的なね、考え方で 工学的なものを推し進められてきたわけですよね。ところがあるとき 自然の大きな転換によって その合理性の考え方が崩れてしまう っていうことが起こったわけですよね。
えー、パスカルであれば、私たちの合理性の考え方には 必ずこぼれ落ちてしまうものがある って、いつも合理的な考え方の中に保留をもうけていたと思うんですね。」
伊集院:「なるほど。そこにパスカル的な考え方があれば、さらなる安全装置があった…作ろとしたかもしれない。」
福岡:「…考えておけば、その合理性からもう一歩出たところで、また別の合理性を考える契機が生まれたハズなわけですよね。でも 自分たちの範囲の中で その合理性を完全なものだと思ってしまった。 だからほんとに メカニズム思考が持ってるある種の落とし穴だと思うんですね。」
鹿島:「合理的っていうのは、もっとドギツイ言葉で言ってしまうと、自己利益の最大化 ということなんです。」
鹿島:「合理的を言い換えるとね。 自己利益最大化の原則で、それぞれの各人が行動したことが 回り回って人間の集団においては自己利益に反するということになっちゃうわけですね。合理的思考、自己利益最大化 まぁそれ自体は別に誤っているとも 間違っているとも言えないことなんですけども、考えに考え、合理的な考えを突き詰めていくと、非合理になる というですね、パラドックス。ま、これが今の日本の色んな面で直面してることだと思いますよ。」
◎私たちは どう生きるべきか?
島津:「その 人間の理性には限界がある。あと 合理的なことだけを突き詰めては解が出ないことがある。…そうしたことを知った上でですね、私たちはどうやって生きるべきかと。パスカルは言ってるんだと思いますか?」
福岡:「現代社会っていうのは、何かを完成させなければならない っていうね、ある種の強迫観念に いつもとらわれているわけです。 締め切りがあったり、納品しなくてはいけなかったりとか、完成されたものへ アプローチする っていうことに 汲々(きゅうきゅう)としてるわけですよね。でもそうじゃなくて、世界は必ず色んな人たちの手によって 更新されて、書き換えられて、塗り替えられていくものなんで、その(更新されていく)プロセスの一部に参加すればね それでいいんじゃないか っていうふうにパスカルは思ってたんじゃないかなと思うんですね。」
伊集院:「なんとなくです、そのデカルトの考え方はゴールに向かってずーっと進んでいくもの で、ゴールというものに到達するんだ っていう。だから合理的を進めて 進めて 進めて いくと、いっちばん究極に合理的な、幸せな暮らしがあるって思って 頑張る。
で、パスカルの考え方は、ずーっと合理的を進めていってもゴールには着かない。ある程度いってるこの上り調子のところに関しては快適はあるかもしれないけど、またこうやって(下りも上りも)繰り返すことは覚悟しとけよ。…っていうか。」
鹿島:「そう。だから 世の中変わっても、社会が変われば、新しい問題はいくらでも出てくる。だから ここで終わり、もうここで必要ない、なんてことは無いんです。常に考える という問題を提起する というですね。どんどん どんどん出てきちゃうわけですよ。解決済みだと思ったのに、もう解決じゃない っていうね。 人生ほんとにそうでね、解決済みということは 無いんです。」
伊集院:「人生って 完成しないのが楽しい というか。パスカルは考えても考えても、(人生の答えは)出ないんだけれども、考えるべきだ と。」
鹿島:「そうですね。」
島津:「最後にパスカルの有名な一説を味わってみたいと思います。」
パンセ断章347より。【人間は、一本の葦(あし)にすぎない。自然の中で、最も弱いもののひとつである。 しかし、それは考える葦なのだ。 人間を押しつぶすためには、全宇宙が武装する必要はない。一滴の水でさえ 人間を殺すに足りる。 しかし、たとえ宇宙が 人間を押しつぶしたとしても、人間は宇宙よりも気高いといえる。 なぜなら、人間は自分が死ぬことを、宇宙の方が自分よりはるかに優位であることを知っているからだ。 宇宙はこうしたことを 何も知らない。 だから、私たちの尊厳は、すべてこれ、考えることのなかにある。 私たちは、考えるというところから 立ち上がらなければならないのだ。 ゆえに、よく考えるよう 努力しよう。 ここに道徳の真理があるのだ。】
島津:「なんとなく胸が熱くなるような エールを送られた気がするんですが。」
伊集院:「僕は考えこむ方だから、考えることの果てしなさみたいなものに対しては やっぱりこわかったりもするんですよ。でも逆に言えば、考えてさえいればすぐに結果でなくても ずっと許してもらえてる感じはするからそこに関しては やっぱり 色んなものに追っかけられはしますから。ちょっと安心感はある。みたいな。」
福岡:「やっぱり あの、『“葦(あし)”である』と言ってるところに意味があると思いますね。つまりその 葦は いつも風に吹かれて揺らいでるわけですよね。そういうふうに 私たちも 弱い存在として 絶え間なく揺らいでいるわけですね。でもその中で 考え続けなければいけない。 そして、この全世界の・全宇宙の すべてのことを 知り尽くすことは出来ないわけです。
でも、その日 一日、なにか一つ発見があれば良い っていうふうに読めるわけですよね。 そして、なにかを完成させるのではなくて、未完成である状態が唯一 考え続けさせる契機になっている ってことを言ってると思うんです。完成してしまうと、そこで考えは止まってしまいますよね。」
鹿島:「だからこのパスカルのパンセというのは、考え続けた結果の考えたこと っていう。そのタイトルがね。」
伊集院:「あーそこに繫がる。最初にね、パンセってどういう意味ですか? 『考えたこと』。 あんだけ考えた人が亡くなったあとに残された …考え続けることが尊いと考えた人が置いていった、考えたこと。」
鹿島:「しかもそれが未完であった。それはある意味、未完の思考。 完成ということを放棄する。彼は客観的には パスカルの死が それを止めたわけですけども。しかし パスカルがほんとに生きたとして、徹底的に考えたら やはり未完になってたと思いますよ。」
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(以上、ここまで番組内容。)
完成や、完璧は求めがちになってしまうけど、それ自体が…完璧を求めること自体が苦しいし、完璧になった と、自分で思い込んで、変化する時代に対応できずに固執するのもよくない っていうか。
社会というシステム自体を、国家が政治が、システマティックに構築したとしても、これから何十年~100年とか続く、人が生きていく中では、自然の猛威というものは必ずあって、それがシステムでは勝てないものもある。(つか、勝たなくてはいけないのか? という疑問もありますが。)
また、構築された理想の社会モデルの中では、未来の人口数とかも推計されると思うけど、それ自体も自然なもの。人口が…子どもが、合理的な原因と結果に基づいて必要な数が存在しているとも限らない。
おそらく 時代背景的なものがあったのかもしれませんけどね。
高度経済成長の時代の中ではデカルト的な考え方のほうが都合が良かったんじゃないか っていう。
一つの目標に向かってね、理想の人生モデルみたいなものを提示したほうが発展する っていう。…今でもテレビとかで言ってるじゃないですか、家族構成のモデルとかね。その核家族の構成自体も今では当時言ってたこととは崩れてるワケですし。
何歳で結婚し、子どもを何人生み育てて。終身雇用で一つの仕事に従事し。その年齢までを想定したローンを組んで大きな買い物(家とか車とか)をする。とかね。
そうして経済を循環させていくことで潤っていく。それが当時では…デカルト的なものを採用したのはそうした理由からなんじゃないでしょうかね。
ですから 鹿島先生が言われた、
『合理的=自己利益の最大化』
というのはすごくしっくりくる考え方ですね。
けど、この考えをこじらせすぎた結果、『自己利益』という…本来(おそらく)国の利益を最大化するための考え方だったハズが、国はもうダメだ、と誰もが思うようになって、じゃあ自分だけでも生き残らなくては、という生存欲求がはたらくのか、自己利益がほんとうの意味での自己利益になり、
非常に狭い見識での“利益”を追求し・エゴイスティックになり、(前回までにあった、自己愛の方向性でもありますよね。)
人を操作したい感情に駆られる。(『鏡の法則』の野口嘉則さんは、これを“コントロール主義”って言ってたような。)(←で、誰もがこの“コントロール主義”を持つものだからこそ、思い通りに物事が進まないと“不安”や“怒り”が増幅して、あとは分かり易い顛末を迎えてしまう。っていう。)
(その欲望を叶えるために、思考停止状態だからこそ、お金や、権力や、暴力や、名誉…というものもに惹かれてしまって、エゴを屠ることになる。)
……その結果が、今の経済格差や不況に繋がったり、仮に理想の物欲を満たしても幸福感が感じられない。っていうところに繋がるのではないでしょうか。
【人はみな変わる~…】という部分について、福岡伸一先生の言われたことは分かりやすい。つか 分子生物学の立場から仰られることなので、どうしても納得してしまう。
『生物と無生物のあいだ』は読んでないのですが、
爆問学問に福岡伸一先生が出られた回でそのようなコトをお話しされてたのは覚えてたので。
構成する分子情報が食物を日々とることで入れ替わったり、
浴びる情報から思考や発言が変化していったりとかね。
福岡先生が、『…記憶だって塗り替えられる~』という発言がありましたけど、これは現在の思考体系や・現在までの経験から、過去の記憶の解釈が異なってきてしまう ということになるのでしょうかね。
今の生き方や、生きることに付随する意味の考え方を、今の自分を強化・肯定するために使ってしまうのかな。と。
(それは自己嫌悪や自己否定もそうかと思いますけど。(おおもとは自己愛だけど) これまでの過去の全て、記憶の全てを自己否定の材料に使ってしまうような。)
『理性の限界』について 多少 触れられていたのも面白かった。
これは高橋昌一郎さんの本を読んでみたい気分ですけどね。
(……まだ読めてないです…。)
『科学が万能ではない ってところまで理解するのが科学だよ』というように、確信と疑問のダブルスタンダードでね。
(ふかわりょう氏も、『無駄な哲学』という本を出版されてましたけど、そこから私も哲学自体はなんの役にも立たないことを自覚(元来、哲学が道楽という考え方もあるそうですので。)しながらも つい哲学に興味を持ってしまったりとかね。)
(その、全てに確信と疑問があるからこそ、私自身としてもどこか不安が絶えないというか、ネガティブに陥るものであったりもするのですが。(苦笑))
後半、そもそもこの、『人間は考える葦である』とは なんなのか。ということについて、
断章347の解釈として、福岡先生が『弱い存在として絶え間なく揺らいで~考え続けることが大事』と。
この、揺らぐ というのは、スピリチュアル的に(←?)(私がこの考えを知ったのは須藤元気氏からのものですが、)すべての物質は振動する。というコトに繋がるのかしらね。
で、『人間は考える葦である』について、yahoo!知恵袋にて、リンク先記事にあるように、弱さと柔軟性の比喩として、『人間=葦』だとしていると。
柔軟性を、弱い人間が兼ね備えるために、考えることが必要だと、パスカルは言いたかったのではないでしょうか。
デカルトとの比較フリップで、デカルトは『データ重視』、パスカルは『時には直感を信じる』とありました。
この、直感について、
前、NHKの『仕事ハッケン伝』という番組で…そのときのメインだったピース又吉さんが、ローソンに務めるということをやってて、プレゼンで色々出してたんですけど、
(うろ覚えだけど、ローソンの企画部として課題に挑む又吉さんのVTRを、のちに 大きな会議室のようなところで、又吉さんと同行したローソン社員や、相方・綾部さん、社長・新浪さんがそのVTRを見る という番組だったと思う。)
そのとき又吉さんが直感的に物事を判断してた中で、
そのVTRをともに見ていたローソン社長の新浪氏の発言(だったと思う)で、
『直感は、さまざまな思考を巡らせたものが土台にある』
という、実に 文学オタクであるピース又吉さんらしい評価をされてたのに思わず唸りました。
悩んだり、考えたりすること……まして私のような考えすぎて時にネガティブのほうへ舵を切るような人は、考えること自体の無意味さもよく思います。
しかしこれまでの中で、早計に判断しないということ、考えを途中で止めずに続けることがどれだけ大切かと。
また、それは(後半にもあったように)時代も否応なく変化するわけだから、思考が時代の流れを経て役に立つときがくるかもしれない。……もちろん、来ないかもしれないけど、それは断定できないから。
この、パスカルのパンセ、考える意義みたいなものは、すごく支えになるものだなと思いました。
パスカル『パンセ』 2012年6月 (100分 de 名著)
(2012/05/25)
鹿島 茂
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パンセ (中公文庫)
(1973/12/10)
パスカル
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100分de名著 パスカル パンセ 『第3回 生きるのがつらいのはなぜか?』を見ました。
司会・島津有理子アナウンサー
伊集院 光
講師・鹿島茂(フランス文学者・明治大学国際日本学部教授)
以下、番組を見ながらのテキスト化。(文脈オカシイとこあると思いますがご了承。)
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「人間は生まれながらに不幸を運命づけられている」
生きるのがつらいのは何故か。
伊集院:「生きるのがつらいのは当たり前だよ。って(笑)」
鹿島:「たとえば、楽しく生きたい って人がいますよね。それは生きるのは辛いからなんです。」
伊集院:「一番コワいのは 自分だけが人生が辛いということ。思いがちなのが、アイツらなんも考えずにラクしてんのに なんで俺だけ辛いんだろう。っていうのが一番コワいから。」
パンセより【数ヶ月前に一人息子に先立たれ、そのうえ訴訟や争いごとで打ちひしがれて、さっきまで悩んでいたあの男が、今は不幸のことなど考えていないのは何故か? 驚くことはまったくない。男は、犬が六時間前から狩り出そうといているイノシシが、どこに現れるか、いまかいまかと待ち受けているからだ。たかがこれだけのことで、それ以上はいらないのだ。
人間というものは、どれほど悲しみでいっぱいでも、気晴らしになることに引き込まれたら、その間は幸せになれるのだ。】
鹿島:「パスカル的ことで言うと、イノシシみたいなことであろうと、ゲームに熱中してる場合も全部 気晴らし っていうことなんです。気晴らし っていうのは文字通りのことで、 ある辛さ、生きることの辛さ…そっちのほうに気を向かないように晴らすこと。
だから先ほどのお悩み(仕事のストレスから衝動買いしてしまいお金が尽きてゆくこと)の方も、あの人は買い物をして手に入れて 得た ものが いいとか悪いっていうことじゃないんですよ。 だから買った途端にいらなくなっちゃう。」
伊集院:「僕ねピンときたんですけど、雑誌の原稿はギリギリにならないと書けないんですけど、その原稿を打ってるのが疲れてきて、その原稿打ってるパソコンでゲームやったりしちゃうんです。パソコン打つの疲れたならパソコンから離れろよw って思うんだけど。だけど、“そういうんじゃねぇんだよ”って。」
鹿島:「パスカルは賭けとか遊戯とか そういうのが下らないって言ってる人が下らない って言ってるんです。」
◎何もしないことが一番つらい?
その一方で、気晴らしが出来ないという人も。
【お悩み内容・64歳男性】
定年退職後でやることがない。務めてたころはバリバリやっていたけれど、家にいるとテレビをボーッと見るなどで暇で暇でしょうがない。
妻からも小言を言われてしまう。
熟年離婚→孤独死→無縁仏。………頭に浮かんでしまう。
私は何のために生まれてきたのか。と。
鹿島:「パスカルが言ってる人間にとってつらいのは“無為”。そして、“倦怠”。これこそ人間にとって一番つらくて避けたいこと。
無為 ってのは なんもしないこと。これが彼の根本思想。」
パンセより【私は、人間の不幸はたったひとつのことから来ているという事実を発見した。人は 部屋の中に ジッとしたままでいられないということだ。会話や賭けごとなどの気晴らしにふけるのも、ただ自宅にジッとしていられないからにすぎないのだ。】
伊集院:「休みですら何かしていないとコワい。ソワソワしてしまう。カミさんから、「じゃあスケジュール帳に、“今日は明日からバリバリ働くために休む日だ。”って書いたら?」って。何かしないといけないような強迫観念がある。」
鹿島:「しかもなんにもしないのもさらに運命づけられて、その(何もしないという)予感というのはもっときついですよ。」
島津:「だって明日から働くための休息だと思えば楽になる。っていう。もう 明日は休息じゃないっていうコトが分かってるワケですよね。それが明日以降もずっと休息・ずっと何もなし …って思うとそれは…」
鹿島:「目的があればいいんだけど、目的なしの休息ってのはつらい。」
伊集院:「ということは、「働きたくねーなー」って言ってるのは、一番不幸な状態では無い ということですか。」
島津:「なんで暇に耐えられないんでしょうかね。」
鹿島:「パスカルに言わせると“労働もまた気晴らしである”と。」
伊集院:「………? ……労働も気晴らし。イノシシ狩りも気晴らし。労働に対してイノシシ狩りが気晴らしなら分かるんですよ。でも、労働も気晴らしってことは 何から晴らすんだ? ってことですよ。何かがあるわけですね?」
鹿島:「そう “何か”があるんですよ。」
パンセより【私たちの不幸の原因を発見したあとで、さらに一歩踏み込んで考察をめぐらし、理由を発見しようとつとめたところ、非常に説得力のある答えを見出した。
それは私たちの宿命、すなわち弱く、“死”を運命づけられた 人間に固有の不幸なのだ。それは慰めとなるものがまったくないほどに惨めな状態なのである。】
伊集院:「すべては “死”に対する気晴らし。……っていうコトですか。」
鹿島:「そうですねぇ。これもちょっと考えるとあまりに当たり前のような気もするけど、まぁ パスカルというのは、人間というのは、ものすごい壁がある。ね。その前に衝立(ついたて)置いて、壁を見えないようにして、思い
っきりその壁のほうに突進してるようなものだ っていうんです。」

(VTR)
ナレーション:「人間は誰しも生まれた瞬間から“死”という壁に向かって進んでいます。その真実を見ないようにするため、人はありとあらゆる“気晴らし”によって 目隠しをするのです。
こうした気晴らしを 耐えず作りだすことで 人間は安心して“死”という壁のほうに進んでいる。パスカルは そう考えました。」


鹿島:「人間は何故“死”を恐れるかというと、死そのものは恐くない。あるとき突然きたら それでおしまいなんだから。だけど 死のことについて考えることが 死よりももっと恐い っつんですよ。」
伊集院:「人間は 死のことを考える という能力を持っちゃってる と いうコトから逃れられない。」
鹿島:「そこが人間が、動物とかそういうのと違う 不幸で・生きるのがつらい すべての辛さっていうのは、その “死”のことを考えちゃう。これをパスカルはキリスト教の用語で、“原罪”だ と。」
島津:「『考えることは“原罪”。』」
鹿島:「原罪というのは、たとえば…生まれてきますね、そしたら その生まれた途端に借金で一億円背負ってる そういうふうに マイナスを背負って生きてきている っていうこと。だから自分の責任じゃないんですよ。自分が色々して借金したんじゃない。生まれたらもう借金してる。…そういうふうに生まれたらもう『おまえは罪はある』と。」
伊集院:「ミジンコは生命を持って生まれるけど 考えない以上はプラマイゼロ。人間は生まれた瞬間から考える能力を持ってるからもう既にマイナス100か、マイナス1000か。」
鹿島:「考えるっていうと、何を考えるかっていうと“死”のことを考えてしまうから それだけで不幸を運命づけられちゃってる。」
伊集院:「“考えることが不幸の原因”…?」
◎考えることは罪なのか?
【お悩み】人間って何のために生きてるんでしょうかね。考えれば考えるほど虚しくなります。
下らないプライドのために争ったり、欲望のために自然を破壊したり。かと思えば 小さなことでくよくよ悩んで落ち込んだりして。 なんか人間って 地球にとっての癌みたいな存在なんじゃないですかね。
ときどき空に飛ぶ鳥を見ながら思うんです『あんな風に何も考えずに自由に飛べたらなぁ』って。
伊集院:「……虚しさの極みみたいなとこにいっちゃってますねぇ。」
パンセより【人間というものは、どう見ても考えるために創られている。考えることこそ 人間の尊厳のすべてなのだ。 人間の価値のすべて、その義務のすべては 正しく考えることにある。】
伊集院:「…原罪じゃないんですか?さっきと逆のこと言ってますけど」
鹿島:「逆のこと言ってますね。」
島津:「今度は『考えることは“尊厳”』だ。と。」
鹿島:「これはですね、考えるということを さらに考える。考えることは“原罪”である というコトを さらにもっと考えると、これは“尊厳”になるかもわからない っていう。 だから 人間は“死”のことを考えますね。そして不幸になりますね。しかし“死”のことを考えることを また考える。…こういうですね人間というのは、ある事柄を もう一段階繰り上げて考えるというような思考が出来るんですよ。それが出来るか出来ないかが人間とそれ以外の違い だと。」
伊集院:「…とすると、さっきの虚しいお悩みの、答えみたいなものをここから導き出すとすると、人間って必要ないんじゃないか・人間ってダメなもんなんじゃないか。はい結論出ました。…っていうのが一番愚かだっていうコトですよね。」
鹿島:「そういうことです。
考えるっていうことが不幸になる。それを考えるということで尊厳になる。また考えるとまた不幸になるかもわからない。」
伊集院:「そのループなんですね。」
鹿島:「しかしまた考えると尊厳になる。」
ナレーション:「人生の壁にぶつかったとき、誰もが悩み・苦しみます。しかし人間は 一歩引いて、客観的に自分のことを見つめ直すことができるのです。
そうしているうちに新たな悩みが生まれることもあります。それでも思考を停止することなく、考え続けることこそが 人間の尊厳であると パスカルは強く訴えているのです。」
伊集院:「ま、僕の中ではすごく結びつくことで、僕はこの世界に入ったときには古典落語で入ったんですね。そのときに、落語をちょっと知ることで、あざとくなる。演じ方があざとくなる・わざとらしくなる っていう瞬間がくるんです。
よくよく考えてみると、一番最初の何にも知らないときにやったヤツのほうが良かったような気がする。その悩みに入っちゃうときに師匠がしてくれた助言が、『ゼロには戻れないんだよ。考え始めたら、考え続けるしかない。』」
島津:「どんなに辛くても・辛い運命を抱えつつも、考え続けるしかない っていうことなんですか。」
鹿島:「そうですね、考えるということは必ず惨めになるっていうことと 尊厳になるっていうことは…」
伊集院:「ずーっと螺旋のように ずーっと…」
鹿島:「ずーっと繋がっているんですね。考えるんだっったら徹底的に考えろ っつってんですよ。パスカルはね。
適当なところでくくってしまうとかね。『こんなもんだろう』と、これは考えることをやめたことになるんですよ。」
伊集院:「考えて考えて 考えぬくことこそが 正しく考える。正しく生きる ということ。」
鹿島:「そう。それが生きること。尊厳に繋がる。」
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(以上、ここまで番組内容。)
はい。
『虚しさの極み』みたいなとこにいる人です。w 私もです。ww
もうね、冒頭の伊集院さんの「生きるのがつらいのは当たり前だよ」って。だから「楽しさを求めてる」って。これだけでかなり惹き込まれましたよ。
そりゃそうですよね。最初っから楽しいならわざわざ求めないですよね。
たとえ最初ッから楽しくてもさらに楽しさを追求してしまうんだとしたら、その状態がつまんない・満たされてない っていう、欲望がとめどないような感じですものね。
『つらい人生』という“当たり前”のことに意識から抗おうとしてるワケなんですね。
しょっぱなから無理が生じるという。(苦笑)
無為。なにもしないこと、っていうことの辛さについてはすごくわかる。
伊集院さんが、休みですら何かしないといけないような気になってしまう。…っていうのは。
私もそうですし。このブログを休まず続けているのも、何かしないといけないような気がしてしまうような、無意識の強迫観念のような。
これも、既存の価値観に染まってるがゆえかもしれないけど、人が生きてるうえで最善の価値をもつことが“生産活動”だというのがあるので。
なにも生産的なことをしていないで、日々を無為に過ごすなんて生きてる価値無ぇよ。って。
だから 何もしていない、何もさせてもらえない、何も出来ない っていうのは辛い。社会に加わることが出来てないような。生きる意味が無いような気がしてしまうので。
関連があるのかはわからない、別な話ですが、
『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(中村仁一・著)の感想の中で、
年を重ねても、それまでバリバリ動いてた人が、病院に入って動くことをさせてもらえなくなったら、思いも依らない病気になった。とかあったような。(うろ覚え)
自発的な活動が何かによって制される。というコトは実に不健康。かと。
『死のことについて考えることが 死そのものよりももっと恐い』
というのはすごく納得。
私はご存知の通りネガティブな思考によく傾向するんです。
たとえばシンプルに被害妄想的な対人恐怖。
あの人は私を否定するんじゃないか。能力が欠落した、外見が欠落した私を否定するんじゃないか。攻撃的な言動を受けるんじゃないか。と。
そうした中で、私が物理的に殺されるくらいなら、精神的に殺されるくらいなら、とっとと自殺でもしたほうがマシだ。と。
いじめもそうですよね。
学校行かなくてもいい。とか、誰かに相談すれば、死なずに済んだかもしれないのに。と。
けど、物理的に・精神的に攻撃を受け続けると ほかの選択肢が思いつかない。……大人になっての“うつ”も同じですよね。それ以外の選択肢が浮かばなくなるほどに心が疲弊する。
『これから先も、ずっとこの苦しみは続く。』(という妄想であったとしても)
(仮に、ほかに助けを求めたとしても、たとえば会社内での労基相談とかはなしくずし的になぁなぁですし。いじめに関しては最近の滋賀県の話をニュースで見ていたらもはや打つ手が無い。)
前回の自己愛にもあったように、自分を守りたい本能があるがゆえに自己嫌悪がはたらいてしまう。
自己嫌悪というのは そのままならただの“停滞”だけど、これが悪化していくと、
自己の心を守るために、そこから逃れるための手段としての自殺 というのは容易に想像のつく流れであると言える。
死を恐れるがゆえに気晴らしの衝立(ついたて)を作り出すとありましたけど、それが 外部からの攻撃・鬱屈とした環境が続くと、“死”によって『死を恐れること』から逃れたいと思ってしまう。
殺されるくらいなら死んだほうがマシ。っていうような。
だ け ど、今回の生きるのが辛いがゆえに楽しさを求める・気晴らしを絶えず作り出す、というのも結局 根源は同じもので。
死を恐れるがゆえに死を選ぼうとしがちなことと、
死を恐れるがゆえに行動的になるということ。
これはもとを辿れば同じ。
これにおける前者のほうは、番組中の後述にあった、
『人間って必要ないんじゃないか・人間ってダメなもんなんじゃないか。はい結論出ました。…っていうのが一番愚かだっていうことですよね』
という言葉にあるように、
自己に対しても他者に対しても早計にこのような判断を処して人にぶつけてしまうのは よろしくない行為。
いじめでも、職場内でのうつ にしても、自閉してしまい……『自分なんて要らないんじゃないか。このまま生きててもロクなことは無いんじゃないか。』って思い、自死を…自分に対して早計に判断し断罪してしまうのはよろしくない。
学校という狭い空間が、当時の年齢にしてみたら世界の全てであるように。
会社という場所が、そこにずっとイヤでも居なくては働き口が無い・働かない…堕落した人間だと思われる……というコトから 無理が生じてしまうように。(まして昔のような考え方を持ってる人だと、会社は家族代わりの空間、会社には尽くすものだ。尽くさなければならない。…っていうしがらみに絡め取られてしまう。)
だからもっと考えるしかないのかもしれない。…というか、自分の普段の領域外のほうにも意見を求めてみたりとかね。
どうしても……自己愛…が関係するのか、自分にとって肯定的な人よりも、否定的な人の存在のほうが強く心に刺さってしまう。けど、外に出れば 自分を否定する人のほうがどれだけ少ないか知ることもできる。
そして、
後者の死をおそれるがゆえに行動的になるのも、自分を守りたいから。
自分の立場を守りたいから。自分の身内を守りたいから。自分の権限を守りたいから。自分の資産を守りたいから。
そのために要らないもの・関係ないもの に 排他的になって、協力者と手を組んで行動的に“成長”していく。
(もしくは“利益”を捻出していく。それこそが今の一般的な価値で、最も尊いことであると 思ってしまってるように。)
自分にとって不利益なものは排除するように。
また、自己愛ゆえになのか、優越感を感じたいからなのか、自分より劣るものを“用意”して、他者を貶めることもしがち。“用意”するだけだから、理由はなんでもいい。
劣るものをわざと用意して、精神的に健康な状態を維持していって、楽しく生きていこうとしたり。…楽しく生きるために。
自分を守るために、自分が生きていくために環境を構築し、環境を守りたがる。
おおもとの、
心の弱さは同じなのに。
ただ等しく、死を恐れているだけなのに。
この第3回での良かったのは最後にあった、伊集院さんの落語時代の師匠の言葉という、
『ゼロには戻れないんだよ。考え始めたら、考え続けるしかない。』
というのと、鹿島さんが言われた、
『考えるんだっったら徹底的に考えろ っつってんですよ。パスカルはね。 適当なところでくくってしまうとかね。『こんなもんだろう』と、これは考えることをやめたことになるんですよ』
というところ。
自分であれ、他人であれ、早計に判断しない。結論を出さない。
結論や結果のないもの、なんでも白か黒かでないと納得しないということはありますが、世の中に絶ッ対正しいものなど無いように(立場や経験や環境が誰しも異なるのですから)、可能性を常に提示すること、それこそが考える“尊厳”なのではないでしょうか。
100分de名著 パスカル パンセ 『第2回 もっと誰かにほめられたい!』を見ました。
司会・島津有理子アナウンサー
伊集院 光
講師・鹿島茂(フランス文学者・明治大学国際日本学部教授)
……100分de名著 自体を久しぶりに見ました。MCが変わってから初めてです。
なんとなく内容の サブタイトルに惹かれて見たいと思ったので。
今回、第2回の雑感なのですが、
第1回は、選択のことについての回でしたけど…就職など働くことを軸とした。…ひきこもるにしても、じっとしてるのはよくない。人間は運動するものである。というような。
選択肢があるから不幸である。とも言うような。
……そんなような内容で。
そして気になったのは第2回。
以下、見ながらのメモ。(文章オカシイとこあると思いますがそこはご了承。)
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
褒められたいものである。
真実は苦味を伴うものである。

真実は人を傷つける何故なら 自己愛を傷つけるからである。


パンセより【愛してやまない自分が実は欠点だらけで 悲惨のどん底にあるのになすすべが無い場合である。このような困惑の中に置かれると、人間の中に 最も不正で罪深い情念が芽生えてくる。 自分の欠点を 誰の目にも触れないよう 覆い隠そうとして全力をつくすのだ。】
自己嫌悪の本質は自己愛である。
自己愛の強いものほど自己嫌悪も強い。
自己愛は憎むべきもの?
自己愛はなくせるのか?
日常がストレスフルだからこその充実した人生を送っているという、褒めれれたい願望もあれば、
ひどい目に遭っている という自慢話もある。
自己愛が生まれるのは、他者がいるから。
他者と関わる以上、自己愛から免れない。
パンセより【虚栄は、人間の心に非常に深くいかりを下ろしている。兵士も料理人も、誰もがみな、それぞれに自慢話ばかりして、賛嘆者を欲しがるのだ。 哲学者だって同じだ。そうした人たちへ 批判を書く人だって、的確だと褒められたいのだ。 批判を読んだ者も、読んだという誉れがほしい。これを書いてる私ですら、そうした願望を持っているだろう。そしてこれを読む人だって…。】
伊集院:「何か本を読むのも、これを人に面白おかしく伝えたいから読むのであって…。読みたいという自然な欲求が僕には無いんじゃないか。映画を見に行くにしても、この映画見たんだぜ って話をしたいだけでであって、話す職業してなかったら何がしたいんだ ってコトに…。そういうものに悩んで…悩んでたので、そういうものだとされるとホッとしますね。」
パスカルの自己愛 と 人から褒められたい …というのは、人間の根源的な衝動。
どーだ理論。衣服など身につけてるものの自慢話をするコトもだし、自慢話をしない、謙虚な態度だろう? という「どーだ!」というのもある。
パンセより【人間の最大の卑しさは、名声の追求にある。しかしまさにそれこそ、人間の卓越の最も大きなしるしなのだ。なぜなら、人が地上でどれほどのものを所有しようと、どれほどの健康さと快適さを得ようと、その人は、人々から尊敬されていなければ満足できないからだ。】
パスカル理論の特徴的なところで。すべてを一方的に否定し、激しく断罪してるワケですね。
くるっとひっくり返ることもあるんだ。という。
読者に向けて、これを読んでるアナタも卑しい。といっておきながら、それこそが必要な行為。
ここまで人間というものが進化してきたのもその欲求があったから。
島津:「そのエネルギーを前向きに使えばいい というコトですね。」
但し、考えることは必要ですが。
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
(以上 メモ)
なんというか、結構エグいですね。(^^;
『真実は人を傷つける』というコト自体は、その行為が相手の覆い隠したい醜い・不完全な部分だからこそ、怒りとか 激昂することによって表出される、……だけなんじゃないか、って思ってました。
が、
『自己嫌悪の本質は自己愛である
自己愛の強いものほど自己嫌悪も強い』
というのはグサッときました。
結局、上に書いたように 怒るとか、そういうエネルギーが内方向に向かうだけで。本質は変わらないんですね。
何かやらしてしまったとき…失敗してしまったとき、他者からの批判を受けたとき、一般的な価値基準から自分が漏れてしまったとき……自分が何かに劣る(と思い込んでる)とき…、すっごく凹んで。
…あぁイヤだ。死にたい 死にたい と思うんですよね。
けどそれは、自分で自分を 傷つかないように傷つかないように……大事に大事にしているがゆえに、ちょっと“他者”によってキズ(この“キズ”の深さも、各個人によって解釈が違って、小さなキズでも大げさに捉えてしまったりもするもので)がつくと……
……誰か(他者)から欠点を指摘されたり、
一般的な価値基準(他者)という共通認識から自分が漏れてる(働いてないとか、役に立ってないとか、ハゲてるとか、太ってるとか)と自覚してしまったり、
すると、
『うわぁぁぁぁぁあ! あぁぁイヤだ! 死にたい死にたい』
ってなってしまう。
でもそれは自分を愛しすぎてるがゆえに。
自分が嫌いすぎるのに。
『愛の反対は無関心』
という有名な言葉があるけど、
これは他者に対してのことのみならず、
愛してるから嫌いになる。
自分を愛しすぎているから、何か 自分の中で“許せない”ことがあると、すっごく自分を嫌いになる。
自己愛が強いから、自己嫌悪も強くなってしまう。
……このへんは すっごい刺さりましたね……。
ブッダでも自我の執着が原因と、人における根本原因は自我とどう向き合うか とあったような。
そして後半の『ドーダ理論』。
どーだ(自分のした行為、業績・実績)すごいだろう。
どーだこれ(この映画、この作品、この行為)面白かったろう。
この 褒められたい願望。
(近年よく使われる、『ドヤァ…』とか『ドヤ顔』よりも、もっとシンプルで単純(に見える)なコトから、『褒められたい願望』が滲み出てるのね。)
伊集院さんの「人に伝えたいから本を読むのであって、読みたいという自然な欲求では無いんじゃないか。話す職業をしてなかったら何がしたいんだ ってことに…」
という部分はすごく共感。
自分にとっての自然な欲求とはなんだろう。と そう思ってたので。
けど、それ(褒められたい、認められたい、共感されたい)自体が自然な欲求。そういうものなんですね。
(まぁー、私もブログ書いて来て、始めはただの自己表出だったけど、それが初代ブログでは徐々にアクセス数が増えてきてリンク張って頂いたりしてきたけど、1回それを体験してるからこそ、現在の2代目ブログでも、その過去に満たされた感情をもう一度満たしたい、っていうのは出てきてしまいますね。)
で、パスカルはそれ自体も否定せずに、そうして褒められたい願望を満たされて培ってきたからこそ、
(これは言ってしまえば、褒めて伸ばす を実践し続けてきたからこそ)
今の発展があり、成長があるのだ。っていうことなんでしょうね。
(つい先日見た、NHK教育テレビの『Rの法則』でも、ヒャダインさんがエビチュー(私立恵比寿中学)のレコーディングで、メンバーの女の子が素人耳にもピッチ外れてるのは分かるけど、ヒャダインさんはすっごい褒めてて。「レコーディングは楽しくなきゃ」とか、「そうすることによって、彼女たちから良いものを引き出す」とした姿勢をとってて。)
(ピッチが外れてる。っていうのは一般的な価値観で、外れてるのはよくないと。そう指摘されると ダメなのか、ってなる。けど そういう小さい(ような)とこでも、肯定することによって、肯定されることによって自信になったり今後の力になっていったりするのでしょうね。)
(第一、ももクロも決して歌はうまくないほうだと思うけど、破天荒というか、全力っぷりというか、なにより楽しそうなところに惹かれる ってのがあると思うから。)
ネガティブで自己愛が強く、今まで色んな人に一般的な価値基準から否定・批判ばっかりされてきた私は、自己嫌悪が非常に強いです。
けど、自己愛は逃れられない。今までなら「じゃあ死ぬしかない」と思うほどに、『自己愛=自己嫌悪』自体を指摘されると「…もう どうしようもないじゃないか。。。」とさらに凹むところ。
しかし、
ここで自己愛自体を肯定し、さらに、結びで、
「そのエネルギーを前向きに使う」『考えることが必要』(これは次回に続くことですが)
としたのは、希望の残る回だったのでは無いでしょうか。
100分de名著 ブッダ真理のことば
第4回『世界は空なり』を見ました。
MC 堀尾 正明
アシスタント 瀧口 友里奈
講師 佐々木 閑
ゲスト 藤田一郎
以下、大体テキスト化↓
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
佐々木:「今日はですね、自分自身を変えることによってわかってくる、ものの見方 ということについてお話しします。 特に今日は“空(くう)”というものを取り上げてお話ししたいと思います。
日本の仏教でいう“空(くう)”というのは、これを知ることによって、たとえば仏になるための道が開かれる。たいへん重大で 重い教えとして伝わっていますけども、ブッダの教えの中では そういうわけではないんです。 人が色々なカタチで世の中を正しく見ていく その見ていく一つのあり方として、物事を“空(くう)”だと見なさい。と。そういう教えなんですね。
ですから今日はまぁ、ブッダの空の教えを説いてる たいへん代表的な例として 仏教世界で一番古いと言われている、スッタニパータというお経の中から お話を一つご紹介したいと思います。」
《ナレーション》
それは モーガラージャという修行僧が どうしたら死を乗り越えられるかを 尋ねたときのブッダの言葉です。
“いつも物事の本質を
考えるようにして
「ここに自分というものがある」
という思いを取り除き
この世のものは空であると見よ
そうすれば死の苦しみを
越えることができるであろう”
スッタニパータ 一一一九
佐々木:「これはやはり 自分というものが永遠に存在する 絶対的な存在物では無い ということです。 したがって、“私”といっても そこの中には“私”の本体はどこにも無い。前回も申しましたように、色んな要素が集まってできてるのが“私”ですから。その中には“私”というものは“空”つまり 空っぽだと。」
瀧口:「空っぽなんですか?」
佐々木:「空というのは、こういう物・形があるんだけども、その中に本質が無いということです。なぜ 実体が無いのかといえば、それは諸行無常。すべてのものはいつまでも同じ形で残るものは何一つ無い。いつも移り変わって別のものに変わっていくからだ。 ということです。」
瀧口:「それは“私”もずっと変わらないわけは無くて、世の中と一緒で 変わってしまうんだよ。っていう。」
佐々木:「そうです。“私”というものは、昔から一つの存在で続いてるように思いますけど、実際は瞬間瞬間に別のものに移り変わる。ただ記憶とかそういうものが、それを引きずって 同じものだと思わせている。」
堀尾:「もっと言えば、“私”というものは、“空”になってしまうものだ…。」
佐々木:「本質的に“空”だ。今の“私”も―――」
堀尾:「“空”だと」
佐々木:「―――いうことです。」
堀尾:「そうすると、死をも乗り越えられてしまうと――…」
佐々木:「これは 死の“苦しみ”ということです。不死になるという意味じゃありません。死の苦しみから 我々は逃れることができるだろう ということですね。」
《ナレーション》
“空”とは、自分が見ているものは常に変化しているかりそめの世界だと思え というブッダの教えです。世の中を“空”と見るためには、客観的に物事を捉えることが大切だと ブッダは説きました。しかしそれは容易ではありません。 執着やうらみなど、さまざまな煩悩にとらわれているからです。 ではどうしたら良いのか。大事なのは心の持ち方だと ブッダは言います。
“ものごとは心に導かれ 心に仕え
心によって作り出される
もし人が汚れた心で話し
行動するなら
その人には苦しみが付き従う
あたかも車輪が
それを牽(ひ)く牛の足に付き従うように”
真理のことば 一
佐々木:「つまり外から我々は色んなものを認識していますけど、それを正しく客観的にできればいいんですけど、それを必ず心が歪めて認識してしまう。 歪んだ認識が 結局我々に苦しみをもたらすのだ。 つまり歪んだ心でものを見ると、そのあとに必ず苦しみがくっついてきますよ と。そういうたとえなんですね。」
堀尾:「歪んだ心 というのは、具体的にどういう状態のことを歪んだ心となるんでしょうね」
佐々木:「それは外界からの認識に対して、たとえば執着とか無明とか」
堀尾:「うらみとか」
佐々木:「うらみとか。そういった煩悩が、一種のフィルターになって、物事を自分中心に作り上げてしまう それが私の実際の本当の世界だと思い込んでしまう。 これが物事が、心によって導かれてしまう ということなんですね。」
瀧口:「じゃあ心の持ちようで、全く見え方が決まってきてしまうということですか」
佐々木:「そうですね。ですから心の持ちようをどうするかによって我々は、我々の心に苦しみが生まれるか生まれないか、それは決まってくる ということですね。」
瀧口:「じゃその心を正しく持たなきゃいけないと思うんですけど、どうすれば心を鍛えることが出来るんですか?」
佐々木:「それは訓練です。」
瀧口:「訓練? それはどんな訓練があるんでしょう?」
佐々木:「もし私たちが 何の訓練も受けずに 生まれた赤ん坊のままで育っていたらどうなっていたか。何も 物を客観視する力が無く、ただ野生のままで育っていく。 しかし私たちはそれを学校教育だとか、色んなところで『これはこう見なさい』というふうに ものの見方をならって(習って? 倣って?)きます。 それが積み重なって本当のものの見方をようやく身につけていく。ということですね。」
《ナレーション》
ブッダは、心の持ちようを訓練すれば自分勝手な思いにとらわれず 苦しみから逃れることができると説きました。それが世の中を“空”と見ること。つまり、客観的に真実を捉えるということなのです。
そうしたブッダの考え方は、科学にも通じると佐々木さんは言います。
佐々木:「言ってみれば科学者というのは そういった ものの見方を徹底的に突き詰めていく 客観的にものを見るためのプロですね。それが科学と呼ばれる一つの世界を作ってるんだと思いますね。
◎ブッダの教えを科学的に見るとどうなのか ということで、大阪大学大学院教授・認知脳科学者 藤田一郎さんがスタジオへ。
堀尾:「佐々木さんもお若い頃は科学者を目指していらっしゃったとお伺いしましたが。」
佐々木:「お恥ずかしい話ですが。(苦笑) 色々あって今は仏教学に移りましたけど。まぁ、仏教やってるうちに、だんだん釈迦の教えに触れて それは私にとってたいへん驚きだったんですね。
まさか科学の因果関係に基づく合理精神が、仏教という宗教の根底にある 初めて気がついたときは たいへんまぁ驚きだったわけです。で、今ではそういう2つの場所に両方いることが出来た ってのはたいへん幸せなことだと思ってます。」
堀尾:「ブッダの教えというのは非常に宗教的、心の問題のようなイメージがありますけど、藤田さん このブッダの教えと脳科学の共通点 これはどういうところにあるんでしょうか。」
藤田:「科学は何千年も真理を追究してきたですね。その殆どの部分は 物質世界を対象に提供してきたんですけども、やはりこの何世紀かですね、精神世界も対象にするようになってきたんです。それが脳科学だというふうに考えます。
脳科学自体は19世紀ぐらいにはもう始まってるんですけども、心の出来事を脳の出来事で説明する、と、理解しようと、そういう学問はやはりもう最近と言っていいと思うんですけど。1980年代から本格化してきました。
ですからもう2500年前にブッダが目指していたことを 今の科学で突き進んで行こうと、それが今の脳科学であると考えてもいいと思います。」
【ブッダの教えと脳科学 “客観的”とは何か?】
堀尾:「これまでブッダは人間の認識は主観にとらわれがちである という、もっと客観的に見ろということを説いてますけども、科学から見るとどういうことが言えるんでしょうか」
藤田:「具体的な例をご覧頂きたいと思います。 どういう絵に見えますか?」
瀧口:「うーん、これは三角形が2つ重なってますよね。」
堀尾:「あの黒い線が描かれた三角形の上に、白のイメージが。……そうですね。」
藤田:「これ、三角形、内側と外側では どちら側が明るいですか?」
瀧口:「明るい…あ、内側の…上側にある三角形の方が明るくて浮き上がって見えますね。」
藤田:「そうですね。ここが明るくてここが暗い。というのは輪郭が見えますか?線が」
堀尾:「見えますねぇ。」
瀧口:「はい 見えます。」
藤田:「これ、勿論ここには何も無いわけです。色も線も無いわけです。この中、白く塗ってるわけじゃありません。」
藤田:「これはあくまでも、2人の心の中にだけある輪郭でして、“主観的輪郭”といいます。これはどなたに見て頂いても見えるんです。 ここにあるものと、目に映ってるものと、私の脳 みなさんの心の中に浮かんできたものの間には違いがあるんですね。ズレがあります。」
瀧口:「じゃあこれは間違ったものを私たちは見ちゃってる っていうことになりますか?」
藤田:「ここに無いものが見える という意味では間違ってるということも言えるんですけど、これは脳がやるべき仕事を今やってるからこれが見えてるんだと。そういうことを示してるんだというふうに考えています。で、やるべき仕事。この場合何かというと、足りない情報を補う・補完という そういう仕事なんです。」
堀尾:「脳はもともとそういう補完する能力があるということ―――。」
藤田:「そうなんです。普段の生活の中では どういうことに役に立ってるか ということなんですけども、まずですね、この写真を見て頂きたいんです。これ なんだと思いますか?」
瀧口:「あれ?なんですかこれは」
堀尾:「カマキリでしょう」
瀧口:「カマキリですか!?」
藤田:「これはハナカマキリという、マレーシアにいるカマキリの一種なんですけども、巧みに花びらに擬態することが出来る。化けることができる――その様子をちょっと見てみますと、これなんですけど どこにいるか分かりますか?」
堀尾・瀧口:「「えぇ~~~っ!?」」
堀尾:「全く分からないです。」
瀧口:「そうですね(笑)」
(写真中央あたりに擬態しているハナカマキリがいる。)
藤田:「ところがですね、これ こんなふうにステキに見えるのは、私たちの脳が働いてるからこういうふうに見えるんですね。これ、あの実は色を明るさに基づいて 輪郭をコンピューターに抽出させます。そうしますとこうなるんですね。
これ、見てお分かりのように カマキリの胴体と首が分かれてしまってます。頭もよく分かりません。これの花びらなどは輪郭がうまく抽出できてませんね。」
堀尾:「花びら自体も分かりにくくなってると」
藤田:「分かりにくくなってますね。これは言ってみればですね、私たちの目の奥にある 光を感じる網膜が 捉えてる像に非常に近いんです。もちろんこれに色がついてるんですけど 網膜の場合には、それでもそこから抽出できる、最大限の情報というのはこのくらいのものなんですね。」
《ナレーション》
普段、私たちの目の奥にある網膜がとらえるのは こうした不完全な輪郭情報です。しかし脳が記憶などから情報を補うことで 私たちは この写真のように世界を見ることが出来るのです。
堀尾:「ということは、網膜に映る世界と、脳が解釈してる世界が違うということですよね。」
藤田:「そうですね。一番分かり易い例えはですね、こういうテーブルでもそうですが、お皿でも、世の中にまんまるな物ってたくさんありますよね。
でも、まんまるなお皿や まんまるなテーブルが、私たちの網膜の上でまんまるに映るときってどんなときですか?」
藤田:「まるがまるとして目に映るのは、真上から見るときだけですよね。そうですよね。
そういうとき、滅多に無いです。私たちの目に映ってるものはいつだって、本物の物体の像とは違ったものが映っている。殆どの場合は。 そういう意味では、脳が解釈して自覚したり認識したりすることに結びついてる結果というのは、網膜に映ってるよりも客観的であるかもしれない。」
堀尾:「先生たとえば、これは上からこうやって見たら丸いから、座って見ても過去に上から見た経験があるから っていうから丸く見える っていうものでもないんですか?」
藤田:「でもさきほど話題になってましたように、最初にこのカマキリを見てなかったら この花の写真にカマキリいるなんて分からなかった。 ということは最初にカマキリを見れば、私たちがその経験を積んだことで見えることになると。 ですから物がどう見えるかではなくて、そこに何があるかという認識のレベルになると。 すごく訓練であるとか 経験であるとかいうのは大きな役割を持ってくるわけですね。」
佐々木:「たとえば仏教ですと、修行によって私たちは間違った世界観をより客観的に正しく見なければいけないと言うんですが。」
藤田:「今は私が専門にしてるということで、視角を例にとってるわけですけども、もっと感情とか、何かの出来事に感情がものすごく結びついてると、『幸せだった』『あれは良かった』『我々は非常に悔しい思いをした』『ヤツにはうらみがある』 と。そういうようなことはちょっとレベルの違った、脳の中の違った場所で 処理されていまして。
そこでは、僕はものを見ることよりは、もう少し、意識的なコントロールができる というふうに思います。それは自分自身の経験としてもそうですし、脳科学としてもそういう知見というのはかなりあると思うんですね。」
《ナレーション》
脳科学の観点では、物事を客観的に見るには経験が大事だと言います。一方ブッダは物事を客観的に見るには心のコントロール つまり精神を集中させることが必要だと説きました。
【精神集中は何をもたらすか?】
堀尾:「ブッダは物事を客観的にとらえるためには、瞑想しろ 精神を集中しろと、いうふうに言ってますね。」
瀧口:「でも客観的にとらえるために、どうして瞑想が必要になってくるんですか?」
佐々木:「瞑想というと宗教的な感じがしますが、精神集中というと まぁ、色んなことに必要な精神のはたらきですわね。あの 集中した精神というのは、特別な力を持ってると思います。 仏教というのは その集中した精神を使って自分の心の中を観察して、それを変えようとする。」
堀尾:「藤田さん、この瞑想については 脳科学的にはどういうふうにお考えになりますか?」
藤田:「たとえば瀧口さん、大学で勉強していて、外で工事がガンガンと始まると。」
瀧口:「よくあります そういうこと。」
藤田:「ありますか そういうこと。」
瀧口:「もう気が散って、全然集中できなくなっちゃいますね。」
藤田:「やっぱり私たちの脳っていうのは 自分の周りの世界で変化が起きたことを検出することが大事な仕事ですので、そういうものがあったら当然 そちらに注意が向くんですね。 だけども、それを上手に一つずつ遮断していくと。
たとえば、目を閉じて、他の感覚だけで食べ物の味を知ろうとか。目だけではなく 耳も閉じる ビールの泡の音も聞こえない。そうするとビールはどんな味になるのか。鼻もつまんでみる。
一つずつ感覚を遮断していけば、それまで当たり前と思ってたものが 当たり前でないものに変わっていくわけですね。 最後には全て、外からの情報は来ない状態になって、で、そこで、何かを考えるわけですよね。瞑想というのはそこから先に心の中にあるものを整理していくわけですね。」
佐々木:「そうですね。」
瀧口:「つまり集中ということは 一つ一つ感覚を遮断していって こう、限定的にしていくってことが、集中して瞑想する っていうことに繋がるんですか。」
佐々木:「一つの対象を徹底的に観察して理解するためには、そうせざるを得ないでしょう。ほかの余計な情報は それを妨げる原因になりますからね。」
《ナレーション》
人は時として苦しみや悲しみなどの感情に溺れてしまいます。 そうしたときに正しい判断が出来なくなり、自分を追い詰めてしまうことがあります。そんなときこそ自分の状況を客観的に把握し、生き方を変える勇気が大切になります。
ブッダは苦しみから逃れるためには 強い意思が必要だと説いたのです。
堀尾:「あの、今の時代、非常に不透明な日本、この、どうして自分が生きてるのかという 意味を見出せない若者もいればね、一方でこの大震災が起きて、大切な肉親を失って、ほんとに自分はこれからどうやって生きていこう っていう苦しみにもがいてる方もいらっしゃる。
そういう中でね、このブッダの教えが、どういうふうにしてそういう方たちのために活きていくか というのは佐々木さんどうでしょうか」
佐々木:「私たちに必要なのは 世の中のあり方をしっかりと自分の目で確認して見ること、そして正しい判断を下すこと。これがたいへん強く求められてる時代だと思います。 ですからブッダは一人一人のために教えを説きましたが、それは今の日本という国全体にしても たいへん意味のある、役に立つ教えだと思ってます。
ですからブッダの教えを一つ一つゆっくりと噛みしめて、それが意味しているもの 自分たちの中へ取り込むことで 自分の生き方を変えることができるかもしれない。
そういう意味ではみなさん一人一人がブッダの教えをよく理解して頂く、そして生きる杖にして頂きたいと思ってます。
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
正直、脳科学の見地(というか藤田さんの解釈)が加わったことにより、ますます意味が理解できなくなってしまったんですが。
心の問題から脳のほうにいったのなら、身体的な反応や対処とかももっと踏み込んであっても良かったんじゃないかと思うんですけどね。
たとえば、過去の経験から見たものを記憶から補完するってこととかね。
あぁ、あとは佐々木さんが言われていた、『学校などでものの見方をならって(これどっちでも言えますよね、個人の対処としては。“習う”も“倣う”も)』っていうのがありましたけど、そもそもその ならったこと自体が過去の記憶による補完されたものの見方で、それが正しくなかった っていうこともあり得るワケですよね。
ブッダの教えにすら執着するな(前回より)というように。
…まぁ、こういうのも理解と解釈を重ねていって客観をすることになるんでしょうか。
網膜に映るものと、脳が解釈してるものがある っていうその違いについては面白かったですが。
瞑想については何か煮え切らない感じ…。
外界からの感覚を意図して閉ざしても、脳内ではゴチャゴチャと雑念が浮かんでくる場合のことは触れてなかったような。
しかし…なんていうか…、
最後の堀尾さんのフリにあるように、その不透明で各自の持つ不安に対しての処方箋みたいなものは何か? みたいなものを最後に佐々木さんから欲しかったんですが、
“世の中のあり方をしっかりと自分の目で確認して見ること、そして正しい判断を下すこと。これがたいへん強く求められてる時代だと思います。”
これだとそれこそ各個人の、
起きたことは一つであっても、解釈は人によって異なるように各個人の解釈に委ねられ、自分で希望を見つけていくものだ。と?
と言うならばどうしても過去の経験と現在の状況を自分の目で見ると憂うより他ならないんですよね…。
これまでもアスボムッレ・スマナサーラ氏の本を読んできたりしましたので、仏教に関しては大体言わんとしてることは分からなくも無いんですが、それを踏まえて、もっと得たいものがあったんですがちょっと消化不良な感じ。
今のところだと 諦観が結論に感じてしまうし。
ニーチェの永遠回帰も含めてもね。
うーん。第2回、3回は面白かったかもね。
ブログ内リンク:“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第3回 執着を捨てる』を見た。”
![]() |
![]() |
『ブッダ 真理のことば』 2011年9月 (100分 de 名著) 販売元:NHK出版 |
100分de名著 ブッダ真理のことば
第3回『執着を捨てる』を見ました。
MC 堀尾 正明
アシスタント 瀧口 友里奈
講師 佐々木 閑
以下、大体テキスト化↓
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
佐々木:「前回は“うらみ”という一つの煩悩でしたけども 今日はもう一つの大きな煩悩である、執着というものについて お話をしたいと思います。」
堀尾:「物とか、人とか 『自分のものだ』って思う瞬間 って多いですよね。
これはいいことなのか 悪いことなのか ってことですよ。」
佐々木:「執着といっても たとえばですね、ブッダのことばを信じて、その道を進むというのも、ある面から見たら執着ですね。
しかし世の中には愚かな執着があって、それが苦しみを生み出してしまう。そういうものがあるんですね。今回のブッダの言葉にしても、真理のことばの中に 執着を示す物語があるので ご紹介します。」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
美しさに執着していた王妃に ブッダはそれよりさらに美しい女性の幻影を見せるが、その幻影が年を重ね 老いて白骨化していった。
ブッダは、 人間の肉体は永遠に続くものではない。だから美しさに執着しても、意味が無いと 王妃に悟らせた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
堀尾:「そうはいっても女性は年齢を重ねても美しさにこだわるんじゃないですか?」
瀧口:「そうですよね。女性としては美しさは永遠のあこがれですから。」
堀尾:「ただやはり、確実に年老いて、最後は死ぬという現実は紛れもないわけですからね。」
佐々木:「今の場合、王妃は美しさというものに執着したわけです。しかしその執着の美しさというものは、前回も申しましたように“諸行無常(世の中の全てのものは移り変わっていく)”ですから、いつまでも続くものではない。 いつまでも続かないものに、いつまでも続いてほしいとして執着した。それが現実との間に全然違うギャップを生み出してしまう。それが苦しみの元ですね。
逆に言いますと、美しさというものは 今のVTRのように 必ず衰えていくものである ということが、最初から理解できていたならば、その美しさに強く執着することは無かったハズです。そこに苦しみが生まれるか、それか苦しみが無いか。その違いが表われてくるわけですね。」
【苦しみを生む執着とは?】
“貪欲(とんよく)に染まった人は
流れのままに押し流されていく
それはまるで
蜘蛛が自分で作り出した糸の上を
進んでいくようなものだ
一方賢者は
その貪欲を断ち切り
執着することなく
一切の苦しみを捨てて
進んでいくのである”
真理のことば 三四七
佐々木:「貪欲――…執着に染まった人は ものの見方が一つに染まってしまいます。例えば今の話のように、美しさが私の全てだ と思った人は美しさだけしか目に入らなくなってる。これが『流れのままに押し流されていく』。 自分が執着したことに、自分が流されていくわけです。自分がつくった道を 自分が流れていく。これが、蜘蛛が自分で作った巣の上 そこしか歩けなくなってしまう という喩え。
『一方賢者はその貪欲を断ち切り』そうすると、一つの道しか歩けなかった人が自由になって 貪欲から生まれてくる執着から生まれてくる苦しみを捨てることが出来る。そういう意味なんですね。 私たちは色んなことに執着しています。この執着がそれぞれ色んな苦しみを生み出している。それが、私たちの普通の生活だと言ってるわけですね。」
《ナレーション》
執着は あることにとらわれるあまり、自分の人生を縛りつけてしまいます。執着することで選択肢を失い、自分自身を追い詰めてしまうのです。 ブッダはそうした執着は 自分の周りにいる人にまで及ぶといいます。
佐々木:「その執着にもう一歩踏み込んだ 真理のことばがあるのでご紹介します。」
“愚かな人は
「私には息子がいる」
「私には財産がある」などといって
それで思い悩むが
自分自身がそもそも
自分のものではない
ましてやどうして
息子が自分のものであろうか
財産が自分のものであったりしようか”
真理のことば 六二
佐々木:「これは『私に息子がいる』という気持ちは問題ないんです。これは当たり前のことです。『私には財産がある』これも当然のことです。しかしながら問題は、『私には息子がいる』だからこの息子は私のものだ …というふうに所有の気持ちですね が起こると、息子の人生にまで執着が起こってくるわけです。
ですからこの子どもがたとえば、自分のあとを継いでほしいと思って、自分のあとを継いでくれと頼んでいるのに 息子は『私は自分の道をいきます』と いってしまうと、何が起こるかというと、非常に辛い苦しみと、そして場合によってはその息子に対する憎しみが起こります。
それは何故かというと、もともと私と息子は別個の人格で、一人の独立した人間があるのに、それを間違って 息子は自分の所有物だから 自分の好きなように動かせるんだ・生きるべきだ というふうに 自分の思い通りに生きるべきだと考える、その考えに間違いがある。これは執着が生み出す苦しみ。財産についてもそうです。
そういうことで我々は、自我のまわりに自分の所有する世界というのを無理矢理つくって、そしてそれを そのまま抱えて生きていこうとするから苦しみが起こる。という そういう話ですね。」
堀尾:「しかし親になったらこうしてほしいとか………塾に通わせ …って気持ちが」
佐々木:「将来この子(自分の子ども)は、自分一人で生きていくのであって、人生にまでは干渉しない という思いが必要です。 それで授かった子どもですから。大事に育てて大人にするのが親の義務。しかしその義務を越えた先にあるのが子どもの人生だ。こう思うなら さっき言ったような苦しみは起こらないですね。」
《ナレーション》
子どもまで自分の所有物だと思い込み、自分の思い通りにしようとする。執着は自分勝手な思い込みを生むと ブッダは考えました。そうした執着にとらわれないためには 自分自身を変えるしかないとブッダは説きます。
堀尾:「『自分自身がそもそも自分のものではない』というところをもう少し解説して…」
佐々木:「それはですね、自分自身というものが最初からあって、不変でいつまでも続くものであるならば それは素晴らしいことかもしれませんが、“私”というものは、今いる“私”も、それからその先にいる“私”、これはみんな別ものです。どんどん変わっていってしまう。ただ、様々な要素が寄り集まったところに、今“私”というものが仮に存在してるだけであって、『これが私です』という実態は何も無いんだ と。それなのに“私”というものにしがみつくと、これも同じように苦しみになる。」
《ナレーション》
人間を構成する要素である肉体は 永遠に続くものではなく、いつかは衰えていきます。そのため、自分の姿に執着しても意味がありません。 ただし、心は衰えることがなく 鍛えることが出来る と ブッダは説きます。執着にとらわれない柔軟な意思を持ち、将来の道筋を決めていくことが大切なのだとブッダは考えたのです。
佐々木:「あくまで“私”は要素の集まりなんだけど、この中に今の私を自分が変えていくことによって、将来の道筋を決めていく という意思作用。それも、その“私”の作用の中にあるわけです。だからこそ仏教は宿命論ではなくて、今の自分の努力が、この先の自分を決めていく という 修行の宗教になるわけです。」
【意思を持って生きるとは?】
佐々木:「ブッダは執着というものを非常にこう よくないことだと。煩悩の中でも特に大きな煩悩だと。したがって驚くべきことに ブッダは、自分の教えにさえも終着するな というふうに。 それを示す『いかだのたとえ』という話がマッジマニカーヤというお経にありますので、ちょっと紙芝居でご説明します。」
佐々木:「ある旅人がいまして、向こうの 遠くの町まで出掛けていく その旅に出たんですが、その途中に1本の大きな川があって それはとても歩いて渡れないような川なんですね。
そこでこの旅人はどうしたかというと、何とか川を渡ろうと思って 先ず そのへんの木を切って、渡るための船をつくる。この場合はいかだを作ったわけです。
そしてそのいかだに乗って、まぁなんとかこの川を渡りきって、
そしてそこでですね、ブッダは問いかけるわけです。『さぁみんなどう思うかね。この旅人は、もう川を渡りきってしまった。この大きないかだを、そのあとも頭に乗せて目的の町まで運んでいくと思うかね』こう尋ねるわけです。 いかがですか?」
瀧口:「そうですねー……これは置いていきますね。」
堀尾:「そうですか。僕 持って行きますよ。」
瀧口:「え!? 持っていきますか!? ほんとですか」
堀尾:「せっかく一生懸命つくったんだし、例えば 雨傘・日傘にもなるし、オオカミとか来たら…」
瀧口:「でも、堀尾さん、重たいですよ。頭の上に乗せちゃうんですから。」
堀尾:「もったいないよ。」
佐々木:「意見が分かれましたね。(笑)
たとえばこれ、仰ったとおり重いです。それでこれを担いでいく前に、もちろん体力消耗して 倒れてしまったら一番おおもとの目的、つまり『向こうの町まで行く』という目的が、それでもう挫折してしまう。つまり 自分が持っている、大事なものだと これが大切だと思っている いかだの所為で、自分の人生が挫折してしまうということもありうる ということです。
ここで言う“いかだ”というのは ブッダの教えを喩えています。この川は向こう岸に渡る つまり 彼岸に渡る。これは悟りの世界に渡ることを意味していますから、そのためのいかだですから これはブッダの教えです。」
堀尾:「ブッダの教えを置いていきなさい ってことを言ってるんですか」
佐々木:「渡ってしまったら もう必要ない ということです。」
堀尾:「いかだを自分で作って それを使って向こう岸に渡れたわけです。成功したわけですよね。成功体験をもある意味 あなた自身にとっては無意味なものになってしまうよ と。」
佐々木:「そういうことです。その場その場において、一番大切なものを選びとっていくべきであって、過去にそれが自分にとって大事だったとか、それでうまくいったとかいうものは 今の自分にとっては何の意味も無いです。」
佐々木:「それではこの話と関連しまして、ブッダが亡くなる直前に 遺言として語った言葉がありますので、それをちょっとご紹介します。」
《ナレーション》
45年間伝道につとめ、80歳となったブッダ。ある村で重い病に侵されてしまいました。
病に苦しむブッダを見て、弟子たちは ブッダが亡くなったら あとは誰を頼りにしたらいいかと心配しました。それに気付いたブッダは弟子たちにこう語りました。
“自らを灯明(とうみょう)とし
自らをたよりとして
他をたよりとせず
法を灯明とし
法をたよりとして
他のものをたよりとせず
生きよ”
大パリニッドナ経
これはブッダが弟子たちに説いた 最後の教えで“自灯明 法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)”と呼ばれています。
佐々木:「この教えはですね、ブッダの最後の旅を語る大パリニッドナ経というお経の中に出てくるもので この“自灯明 法灯明”というのは有名なブッダの遺言として、今でも伝えられているものです。
その意図がわかるものがありますので、それをご紹介します。」
“自分の救済者は自分自身である
他の誰が救ってくれようか
自分を正しく制御してはじめて
人は得難い救済者を
手に入れるのだ”
真理のことば 一六〇
佐々木:「さきほど“自灯明 法灯明”という言葉が出ましたが これは自分を灯明にせよ 法を灯明にせよ、つまり 灯明というのは自分が亡くなったあとに誰を頼りにしたらいいか、何を頼りにしたらいいか というランプですね。暗闇を歩く。
で、それは自分であり、法である といいます。自分というのは修行者本人。そして法というのは これはブッダが説き残した教えです。つまり自分でがんばっていけ と、こう言ってるわけです。それがこの詩の意味にも表われてきます。『自分の救済者は自分自身である』その通りです。で、『他の誰が救ってくれようか~手に入れるのだ』。 自分の心をきちんと正しい方向に向けていくことによって、はじめて自分自身を苦しみから救うことができる。」
堀尾:「仏教というと 彼岸があったら、彼岸に辿り着くために ある意味このブッダも含めて そういう人たちの教えにすがりついて、それに頼っていく というようなイメージがあったんですけど、最終的に自分の救済者は自分自身なんだよ ということを きちっと教えてるわけですね。」
“自己の救済者は自分自身”
《ナレーション》
自分自身の意思を頼りにしていきなさい。それがブッダが最後に伝えたかったことなのです。
そのとき重要なのは、自分の心を正しい方向に向けていくために 物事の原因と結果を突き詰めることだとブッダは説きました。 たとえば執着で苦しんでるときには そお苦しみの原因を見つけ、無意味な価値観に縛られないよう 心を整理することが大事だと諭したのです。
【執着を捨てるには?】
佐々木:「そこで一番大切なのが、ブッダが説いた 世の中は全て原因と結果で動いている。その法則性で世の中を見ていくことが、一番大切だと言います。そしてそれは普遍的なものの真実のあり方ですから、だれの視点が正しいとか彼の視点が正しいとかではなくて、原因・結果に基づいて 全てがきちっと合理的に理解できる その世界こそが この世界であると。」
堀尾:「つまり自分自身で考え抜いていくことで、執着というのをなくすことはできるということなんですね。」
佐々木:「そうですね。つまりこの世の中を正しく見る。正しく見るためには考えなければなりません。よく考えて そして正しく見る。そうすると世の中は 原因と結果の因果関係によって粛々と動いてるのが分かる。
その中に自分勝手な世界を作って、ものに執着をするということが、これは苦を生み出すんですが、それが所詮は意味の無いことである。無意味なことである ということがわかったそのときに、その執着から生み出される苦しみも消える と、こういう構造になっているわけです。」
堀尾:「自分というものは ある意味 無いに等しい存在なんだっていうことを自覚する っていう…」
佐々木:「えぇ ただし それも先ほど申しましたように、意思作用が必要ですから。何も無い。私は無だ。 っていうわけにはいかないです。今の私は きちっとこの方向を向くんだっていう意思が必要です。
その意思に従って 正しい方向を向いていくと、それが執着やその他の煩悩を消す道へとつながって、それが ひいては苦しみの消滅に繋がるということで。 仏教では自分の今の意思というものを とても大切にしてるんです。」
堀尾:「なるほど。だってね、執着全部捨てろ って言ったら 例えばほんとに向上心とか 人への情とか、それももしかしたら全部 執着かもしれない っていうふうで、捨て去らなければいけない、そんな思いにもとらわれるんですけど、やっぱり苦しみを伴わないものはそれはいいわけですね。」
佐々木:「そのときそのときで、今の自分にとって苦しみのもとになる執着はなんだ っていうことを考え続けなければならん っていうことですね。」
瀧口:「その 見詰め直すっていう作業が 大切っていうことになってくるんですね。」
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まぁ、大体は前回の“うらみ”の回についてと共通することではあると思うんですよ。どちらかというとこの第3回のほうが、前回より前の立ち位置にあるような感じでね。
気になったのは先ずこれ、
「あくまで“私”は要素の集まりなんだけど、この中に今の私を自分が変えていくことによって、将来の道筋を決めていく という意思作用。それも、その“私”の作用の中にあるわけです。だからこそ仏教は宿命論ではなくて、今の自分の努力が、この先の自分を決めていく という 修行の宗教になるわけです。」
結局この、唯一無二だと思ってる“私”というものは色んな因果関係によって存在しているもので、別個であるにも関わらず、“私”という個は“個”によってのみ形成されてるワケでは無いということなんでしょうか。
だから“私”は“私”のものでは無い。と。
でも、じゃあ意思作用というものはいったいどういうものなんだろうか。
無常の中で流れていく“私”というのは移り変わっていく時代や社会(年齢によって変わる人間関係)の波の中で摩擦がおこったりして削られたり、また付着したりして(海岸の貝殻や石のように)、“私”というものは形を変えて、意思も形成されていくということで。
じゃあ、その意思作用というのは、“私”であって、“私”では無いのでは。
結局どの範囲が(この表現の仕方も正しいのか分かりませんが)“私”なのか。
色んな要素によって構築される“私”というものは、普遍であって不変では無いということ。
そのとき大切だったおもちゃも、年齢を重ねたら要らなくなったり。
そのとき大切だった友人も、年齢を重ねたら合わなくなって、会わなくなったり。
ずっと続く人間関係というのも、過去の相手を求めるとそれは執着であって、変わっていくことを受け容れ合う関係は続いていくものなのかしらね。
で、『宿命論では無い』というなら、全ての出来事というのは決まってるわけでは無いというコトなのね。
それではネガティブな出来事はどう捉えたら良いのかしら。
いかだを置いていく。ブッダの教えさえも捨てる。成功体験すらも捨てる。
というのがあったけど、それもだけど、
失敗とか挫折とか、心に傷を負う体験とかを捨てる っていうことも大切になるわけで。
『今の自分にとって苦しみの元となる執着を捨てる』ということは。
どう捨てればいいんでしょうね。
事件・事故により傷ついたコトというのは。いわゆるトラウマみたいなものは。
そんなもん、執着してたら苦しいのは分かってることなのに執着してしまう …ってういうね。
前回の“うらみ”の感想でも書きましたけど。
ある意味、自分に対しての“うらみ”。取り返しのつかない悔い。がね。
ま、けど、ラストに佐々木先生の、
「(略)その中に自分勝手な世界を作って、ものに執着をするということが、これは苦を生み出すんですが、それが所詮は意味の無いことである。無意味なことである ということがわかったそのときに、その執着から生み出される苦しみも消える と、こういう構造になっているわけです」
という発言がありましたけど。
トラウマ自体が『今の“私”』には無意味であるということなのかな。
その発言に引き続き、堀尾さんが引き出して下さった、
『“私は無だ”っていうわけにはいかないです』
というのは大きいですね。
これは過去、アルボムッレ・スマナサーラ氏の本などを読んでても、なかなか掴めなくてそう思ってましたから。
“私”というものは“無”である。と。
けど、違う。と。
集合的な要素による、けど個 同士は別個である“私”という生き物。
それが苦しんで、生きるのを阻むものがあれば執着というものであり、それは捨て去るべきと。
常に自分の感情(苦しみ)を見張ることが大切。ということに終始するのでしょうか。
ブログ内リンク:“【100分de名著 ブッダ 真理のことば】 : 『第2回 うらみから離れる』を見た。”