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“私”を構築する“私”を守る必要が無くなった時、“私”は役目を終える。


思想も、習慣も、癖のように根付いた言動 一つ一つも。

“私”自身という存在が、何を為すべきために生まれ此処に在るのかというコトなど、誰も何も解りやしないもの。

既に生まれた時点から 在る環境に身を置き続ける以上、かくあるべき私 というものは、周りの環境に染まって育まれていく。

オリジナルだと思って得たものなど 無い。

全てのものが混濁し、構成されていく。
純粋は混ざり合ったエネルギーの塊なの。
純粋にひねくれて反発することも 合わせ鏡のように誰かを写した先に構成される。

何かのものに対し、常に、反論・反発することで“私”の意義を確立する。


これは違う。それは正しくない。あれは嫌い。
そういうのは“私”に似つかわしくないと思うの。

「じゃあ、あなたが好きなものは何?」
「わからない」



快楽と矜持の空間に身を置いて、楽しいから楽しいと感じ、好きでくれるなら好きなのと?



“私”の起源は何処にあるのだろうか。


役目を果たしているうちが華なのだろうか。
誰かの言う通りの物事をこなして。
誰かに与えられたものをただ頂くだけの日々を。
誰かから役割を果たすためだけに存在させられている“私”を尽き果たすまで。

それが終わり。





自分の中で、『これが“私”』だと断定してしまえば、そこから先の“私”はアイデンティティーに悩むことなく在り続けられる。
たとえ人格・性格的に自覚的に破綻していようとも。
たとえ周りの誰かに無自覚に迷惑を捧げ続けていられたとしても。
これが“私”なんだから、たとえ何があっても揺るがない。
……とでも?


この世の人 全てに役割が与えられていると仮定して。
この世の人 全てに生まれた意味・存在する役目が与えられているとして。


迷惑を蒙る役目。ひたすらに迷惑を与え続ける役目。

自分が我を通すことだけを善しとして在り続けることなど出来ない。


そこで殺す人も、殺される人も。そういう運命だと。
学校でいじめに遭う人、いじめる人、そういう役割・担当が与えられているのだと。
会社で身を粉にして働く人、ただラクをする人、真面目に仕事に取り組みすぎて囚われすぎて死ぬ人。


なんだろうこれは。



努力をしなさい。我慢をしなさい。適正を知りなさい。身の程を弁えなさい。
あぁ、これは他者からの臨まれる中で“私”を 当て嵌めようとしているのかしら。
役目を植えつけようとしているのかしら。

もともと“私”は環境によって構築されたものであるとして。もともと“私”は他者の意思によって構築されたものであるとして。
しかし、
そ れ は そ れ と し て 、別の価値観を要求する。

そして臨まれる“私”を演じることで他者は喜び感謝し、“私”は誰かの価値観によって構築されたものであるにも関わらず、“私自身”が満たされたものだと感じてつい喜び勇んで、臨まれた異なる価値観の“私”で在り続ける。


誰かとの同一に心は安心し。
誰かとの差異に悩み。
誰かとの差異に“私”を知る。



主語が欠落し、同調の中で“私”は在ろうとして 尚 差異は狭窄し“あなた”を見失う。

うつろう中で確立はブレ続け、不確信(不核心)の存在に依存する。


『変わり続ける“私”』が、『変わらない“私”』。

恒常的生活に刺激を。その刺激を知る際の差異の感覚が瞬間の“私”を知る。

そこに本当の一瞬の“私”が。

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[2011/08/01 05:09] | 駄文
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