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100分de名著 ブッダ真理のことば 
第2回『うらみから離れる』を見ました。


MC 堀尾 正明
アシスタント 瀧口 友里奈

講師 佐々木 閑


以下、テキスト化↓


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“なぜ「うらみ」を抱くのか”

佐々木:「前回は、私たちの苦しみには大きく2種類ある と話をしました。 一つは例えば、年をとる あるいは病気になる などの、避け難い大きな苦しみで。前回はその話をしたんですが、今回はもう一つの苦しみ、それは 私たちの心が作り出す・私たち自身の人工的な苦しみ というようなものを 色々考えていきたいと思っています。
    で、その一つのとっかかりとしまして 代表的な人間の苦しみを生み出すもと、それが『うらみ』ですね。その『うらみ』について色々考えていきたいと思います。」


ブッダのお弟子さんがつくったといわれる 物語から紹介。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

●ブッダの親族である、シャカ族と、コーリヤ族が互いを滅ぼしかねないほどの激しい争いをしていました。そこへブッダが現われ尋ねます。
ブッダ:「これはなんの争いですか?」
将軍も副将軍も答えられませんでした。ようやく奴隷に問いただして、初めて水の利権の争いだとわかったのです。

ブッダ:「大王よ、水にどれほどの価値があるか」
大王:「わずかです」
ブッダ:「部族にどれほどの価値があるか」
大王:「はかりしれません」
ブッダ:「わずかな水のために はかりしれない部族を滅ぼすことは ふさわしくありません」

この言葉を聞き、シャカ族とコーリヤ族の争いは鎮まっていったのです。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――

瀧口:「友達とのケンカでも『なんでケンカしたんだっけ』っていうようなケンカもよくありますね。」
佐々木:「小さな原因であったのに、それが次第に増幅されていって 最後には何のために戦っているのかも分からなくなってしまう。そういうことありますね。  これこそ 我々が自分自身で生み出す苦しみの代表的な例ですね。
    で、今のこの話は ブッダ真理のことば の197番の詩なんですね。それについて説明しましょう。」


“うらみを抱く人たちの中で
 私はうらみを抱くことなく
 安楽に生きよう
 うらみを抱く人たちの中で
 うらみを抱くことなく
 暮らしていこう”
     真理のことば 一九七

佐々木:「これは仏教の教え ブッダの教えに従って生きていこう。そういう強い決意を表しています。『うらみを抱く人たち』というのは 一体誰か。 何か特定の悪い人なのか そうでは無くて、私たちは人間として生まれれば 全員 心の中に煩悩を持っています。うらみもあれば欲望もある。 つまりこれ(『うらみを抱く人たち』)は 普通の人たちの中で暮らす ということです。しかしその中で 『私はうらみを抱くことなく』これはつまり自分で決意して、そういう気持ちを起こさないようにして生きていこう というわけで それはとても強い決意を表しています。」

佐々木:「じゃあその結果 何が起こるのかというと、『安楽に生きよう』。  つまり自分の心の煩悩を消すことで、苦が消滅していくわけです。ですから本当の安楽 本当の幸せというものを求める、これが 私の道だ ということを説いてるわけなんですね。」

堀尾:「うーん… ただ仰るとおりですけど、たとえばパンを食べてて、誰かにパンを取られたら あ゛ーーっ!! ってその 取ったヤツに 『なんで、オレお腹空いてるのに』とうらみ持ちますよね。」
佐々木:「そうですね。」
堀尾:「だから うらみを抱かないで安楽に生きる って 相当難しいことなんですよね」

佐々木:「その場合、一番の原因は、『パンが自分のものだ』と思ってることですね。」
堀尾:「だって 食べてたんだもん。今。」

佐々木:「そのパンを たとえば 誰かが下さったパンで、たまたまそれを私は手に入れて食べているだけだ。 と思うのと、これは私が稼いだ金で買ったパンだから誰にも渡さない 私だけの物だと 思ってるのでは、全然そのときの気持ちが違ってきますね。 ですからそういった うらみを起こさない 煩悩を起こさないような状況に、自分の環境を整えていく ということも 仏教が考える大切な一つのポイントなんですね。



佐々木:「それでこの うらみを捨てる ということですが、えーまぁ、これはずいぶん昔の教えですけども、この教えに基づいた 有名な出来事があったんです。1951年のサンフランシスコ講和会議 はご存知ですか?」

堀尾:「はい。」
瀧口:「第2次世界大戦のあとに、日本が連合各国と平和条約を結んだ という―――…」

佐々木:「そうですね。そのときに この 真理のことばを用いた、とても重要な演説が行われたんです。それをちょっとご紹介します。」


……――――1951年 サンフランシスコ講和会議――――………

日本と世界の国々の間で平和条約を結ぶために行われた サンフランシスコ講和会議。領土や賠償に関して 日本に厳しい条件を提示する少なくありませんでした。 こうした中、セイロン(現在のスリランカ)の代表として出席した、ジャヤワルデネは印象的な演説をします。
ジャヤワルデネは戦争中に受けた、日本軍による空襲などの被害を指摘した上で、こう語りました。

「わが国は 日本に対して賠償を求めようとは思いません。なぜなら我々は ブッダの言葉を信じているからです。」

“憎しみは憎しみによっては止まず ただ愛によってのみ止む”

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

佐々木:「今のこの演説の言葉は この真理のことばの5番目の詩なんですね。」

“この世では
 うらみがうらみによって
 鎮まるということは
 絶対にあり得ない
 うらみは、うらみを
 捨てることによって鎮まる
 これは永遠の真理である”
     真理のことば 五

堀尾:「一個人ではなくて、国の代表者が こういうことを世界に向かって堂々とアピールできるってのは 器が大きいですよねぇ」

佐々木:「ここで言います この うらみが鎮まる っていうのは、いわゆる日本で言うところの『全部 水に流してチャラにする』というような意味とは全然違うんですね。   物事の対立に際しては 勿論その責任の所在も明らかにしなければならないし、謝罪すべきことは謝罪する。反省することは反省する。 そういったすべての手続きがキチンと終わった上で、さらに自分のこの 心の勝手な思いとして相手を憎むということはやめましょう と。
    それをすると いつまで経ってもお互いのうらみというのが 消えることが…あるいはそれが増幅していって、また次の争いを生み出す。そういうことを言ってるわけなんですね。」

堀尾:「ま、しかし、個人、人間同士ならわからないことでも無いんですけども、やっぱり国同士でいくとね、今も全く戦争が止まない地域もたくさんあるじゃないですか。 やっぱり うらみがうらみを呼んで、次々と争いが起こっていく というケースがありますよね。」

佐々木:「ですからこの うらみというものは、勿論 煩悩の一つなんですけども、煩悩というものが もともと人間の心に最初からあるものなんですね。
    これは 消せない。
    なにもしなければ そのまま我々は煩悩のままに色々なトラブルを起こし、苦しみを生み出していくんですね。 ブッダという人は この煩悩を消すために 一生懸命努力をしたわけです。で、煩悩とはいったいどんなものなのか。煩悩の正体は何だ ということを じっと自分の心を見詰めることで 見定めていったわけです。
    その結果 表われてきたのが、この うらみも勿論 煩悩の一つなんです。執着もそうです。傲慢もそうです。    しかし、そのおおもとに実は 親分のような おおもとの煩悩があるということに気がつくわけなんですね。」

堀尾:「なんですかそれは」
佐々木:「それは無明(むみょう)というものです。無明。」


【無明とは?】

“たとえば
 物惜しみは恵む者の汚れ
 悪行は 過去・現在・未来の
 いかなる生まれにおいても
 汚れである

 その汚れよりも
 一層汚れた汚れの極み
 それが無明だ
 比丘(びく)たちよ
 その無明という
 汚れを捨て去って
 汚れのない者となれ”
     真理のことば 二四二-二四三


佐々木:「もうひたすら 無明を消さねばならん ことを主張してるわけですね。
    『物惜しみは恵む者の汚れ』←これはちょっと日本ではわかりにくいんですが、インドという国を想定するとよくわかります。インドでは 良い行いの代表が 人にものをあげるクセなんです。 ですから『恵む者』というのはインド人にとってはよいことをする 当たり前のこと。 ところがそれを、物惜しみの心でしない ということは 悪いことであると。この”汚れ”というのは心の煩悩です。 物惜しみも煩悩であると言ってるんです。で、そのほかにも色々な事柄がいっぱいあるけども、それは全部、心の煩悩だ。
    しかし、その色々な煩悩の中の極みですね。これ以上ない、最大の煩悩―――。」

瀧口:「汚れの極み って言ってますから。」
堀尾:「諸悪の根源 って」
佐々木:「それが無明だ」

堀尾:「無明って なんですか これ」

佐々木:「この“明(みょう)”という字。これは智慧という意味です。智慧とはなにかというと、これは前回も申し上げましたが、この世のありさまを正しく見ていく力です。 で、それが無い ということは、この世のありさまを正しく見ることができない 愚かさ ということです。だから無明は 愚かさの別名なんですね。」

堀尾:「無明ねぇ~…先生もうちょっと分かりやすく説明していただけると……」

佐々木:「たとえばですね、一般的な友達の人間関係を考えた場合ですね、まぁ 友達付き合いをしてるのに なにか ちょっとした 些細なことでケンカをしてしまう。些細なことだから、本来ならば些細なことで仲直りができるハズです。  ところがその些細なことでケンカしたときに、私たちは勝手に色んなことを考えてしまう。『彼は本当は昔から自分のことが嫌いだったんじゃないだろうか』とか、あるいは、『私のことよりも あっちの人の方が好きになって、私との縁を切ろうとしてるんじゃないか』そのようなことをどんどん考えるわけです。
    そうなってくると、相手のそのちょっとした仕草や、意味も無い事柄までが まるで自分に対する敵対行為のように見えてくる。そして最終的には『あいつは私の敵だ!』というような憎しみにつながっていく。これは無明です。」

瀧口:「疑心暗鬼の状態になってしまうんですね」
佐々木:「そうですね。本来 全くなんでもないような状態であるのに、それを勝手に自分が捻じ曲げて考えて、そしてそこから心の色んな葛藤を生み出して、それが全部苦しみに繋がっていく。まさに自分自身がつくっている 人工的な不幸。無明というのはそういう不幸 苦しみの一番おおもとになるわけです。」


“無明とは自分勝手に解釈して 正しく見ることができないこと”


《ナレーション》
さらに真理の言葉には 無明を解決する手がかりについて書かれている詩があります。


“愚かな者が
 自分を愚かであると自覚するなら
 彼はそのことによって賢者となる

 愚かな者が
 自分を賢いと考えるなら
 そういう者こそが
 愚か者と言われる”
     真理のことば 六三


佐々木:「これは特に無明をテーマに語った言葉です。 つまり 私たちは生まれつきみな煩悩を持っています。悪い人だけが煩悩を持っているんじゃなくて、生き物として生まれた人間は全て煩悩を持ってるわけなんです。で、勿論 無明もあります。 従って 本質的に我々はものを考えるときに愚かな考え方をします。」

堀尾:「なるほど そう言えるわけですね。」
佐々木:「しかし私たちの中に無明があると気がついたときに 初めて人はその愚かさから抜け出すことができる。しかし自覚できない人は、自分の考えが正しいと思いますから、自分は賢者だと思う、ですから、『愚かな者が自分が賢いと考えるなら そういう者こそが 愚か者と言われる』そんなふうに言われますね。」



“「愚かさ」に気がつくことが大事”


《ナレーション》
人間は生まれつき煩悩を持っているとブッダは考えました。ではブッダ自身はどのようにして自分の煩悩を消し去っていったのでしょうか。


瀧口:「ブッダっていうと すごく特別な人物っていう感じがするんですけど。」
佐々木:「今の私たちから見ると ブッダというのは 完全・完璧な人間ですから。もう することなすこと全て正しい というふうに思いますが、やはりブッダは 歴史的な人間。我々と同じ人物です。そして悩み、苦しみ、間違って、その最後の結果として悟りを開いたということです。
    むしろ、ブッダがこうやって間違いを犯しながら 最終的に本当の道を獲得したという道筋は 私はとても素晴らしいと思います。」

堀尾:「我々にも通じる道筋でもあるわけですね。」


《ナレーション》
もともと釈迦族の王子ゴータマ・シッダールタだったブッダ。ブッダはどのようにして悟りをひらいたのでしょうか。それは修行の過程で ある間違いに気がついたことがキッカケでした。
インドの北部にある 前正覚山(ぜんしょうかくさん)。出家したあと、シッダールタはこの山で6年間 断食をはじめ さまざまな苦行を行ったといわれています。腹の皮は背中に接するほどにまでなり、ときには生死の境を彷徨うこともあったといいます。しかし煩悩は消えませんでした。どんなに過酷な苦行をしても、悟りを得ることはできない。まちがいに気付いたシッダールタは 苦行を放棄し山を下ります。 (セーナー村)衰弱していたシッダールタは村娘スジャータから乳粥を受け、健康を取り戻します。
その後 菩提樹の下で苦行から瞑想の修行に切り替え、悟りをひらき 目覚めた人・ブッダとなったのです。



瀧口:「苦行だと、悟りは得られないんですね。」
堀尾:「なんかねぇ、出家して 断食など自分の肉体を いじめていじめていじめぬいて、初めて何か真理がわかる みたいな そういうイメージあったじゃないですか。」
佐々木:「そうですね。」
堀尾:「苦行こそ心理を見抜くワザだっていうふうに思ってましたけど、違うんですか」

佐々木:「ブッダも最初はそう思ったわけですね。で、その、辛い思いを一生懸命耐えながら、じっとその我慢する。そのパワーが、自分の心の煩悩を消すという方向に向かうだろうと思って。そして何年も、さきほどの苦行像のような、ガリガリの姿で 苦行を続けたんですが、何も起こらなかったんですね。
    つまり体を痛めつければ忍耐力はつくのですが、煩悩は消えない。もし 煩悩を消そうと思うのならば、『煩悩を消さねばならない』という心の集中力を常に持続して 心の中に努力の方向を向けなければいけない。――ということに気がついたわけです。  伝説によりますと、このときブッダは苦行してるときに何人かの仲間と一緒に修行していたんだそうですが、ところがブッダはそれが意味のないことだと。無駄だと気がついて すぐに方向転換をして そして先ほどのように乳粥を食べて、言ってみれば 健康体になって、普通の体になってから修行をはじめた。それを見た残った仲間は、『あいつは堕落した。落伍した人間だ』といって、すごくバカにしたというんです。」

堀尾:「そう見えますもんね。」

佐々木:「そうです。しかしそう言われても正しい道はこれだと決めたら どんどん新しい方向へ向かっていく。これがブッダの進んだ道。非常に合理的なんです。」

【「うらみ」から離れるには?】

堀尾:「今日は『うらみ』からどう離れるか というのが一つのテーマなんですけども、日常的にやっぱりこう 小さなうらみから大きなうらみまで こうなんとなく 人に何か怨念を持ちながら生きるって どうしてもやめられない ってのありますよね。」
佐々木:「そうですね」
堀尾:「サラリーマンだったら 異動があって、何でオレがあそこのポストに行かなければいけない とか、色んなことを思って『アイツがオレを告げ口したんだ』とかね、『あの上司がオレを恨んでんじゃないか』とか、色んなこと思うじゃないですか。」

瀧口:「妄想がどんどん広がって――…」
堀尾:「そうそう。そういうカタマリになってしまうこと ありますよね。」

佐々木:「それは大変つらいことですよね。そのときに そのポストにつくことが、本当に私にとっての幸せなのかどうかという 一番おおもとのところから考えるべきですね。ほかの道は無いだろうか、つまりポストについてだんだん上に上がっていくことを最初から自分の幸せの道だと設定しているから それが苦しみになるのであって。」

堀尾:「出世街道から外れてしまった とか。」

佐々木:「外れるなんていうこと考えると またそれも苦しみになりますね。ですから それとはまた別の自分の生きがい、生きる道、そういうものを探していくということも大切なことですね。
    これはもう ブッダの教えは一歩一歩なんですね。何か特別なことで 一挙に消えることはありませんから 毎日少しずつです。 まさにいつもそれを念じて、“正念”ですね。念頭に置きながら、毎日毎日少しずつ 自分の心をトレーニングしていく ということが可能ですから。そういう中で ブッダが説いた、理想の境地へ少しずつ近づいていく。それがたとえ完成しなくても 毎日少しずつ よくなっていく という思いは私たちにとってはとても励みになりますね。
    そういう思いを持って暮らせば、現代の日常生活の中でも ブッダの教えは十分生かされていくと思いますよ。」

堀尾:「自分が中心だっていうことを 捨てる っていうことが すごい重要なわけですね」
佐々木:「それがなによりですね。」
瀧口:「なかなか難しいですけどね。」
佐々木:「難しいですよ それは。」

瀧口:「ちょっとクールダウンして、一歩引いて、自分を俯瞰で見詰めるっていう」
佐々木:「客観的にものを見る っていう これは訓練がとても大切だと思います。放っておいてできるものじゃないので。やはり毎日それをしようという 努力を続けていくことが大切ですね。」

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わかってはいても 難解でございます。

終わりがけに、堀尾さんが、
『怨念を持ちながら生きることが どうしてもやめられない』
って仰ってましたけど、ホントにねぇ。。。

パンを取った・取られたの話にしても、
『これは自分のもの』だと なった時点から、それを守るほうに思考が働いて、それを脅かす存在には『このやろう!』と思うワケで。

生きるために 人は 何かを得るために、躍起になって。
でも 何かを得れば、今度はそれを守るために必死になって生きて。
で、それが疎外されれば怨んだり妬んだり。

会社のポストの話については、
結局そのレースで勝たなければ、幸せになれない っていうのがもう刷り込みされてるから、っていうかねぇ。
社長になれなければ、莫大な資産を築き上げるコトができなければクソだ。みたいなね。
そうじゃないと生きていけない、幸せじゃない、 っていう。
…そんな考えが根底にあるから、邪魔されるような出来事があると恨む。

(まぁ、なんというか どっちも次回のテーマの“執着”に繋がるんじゃないかと思いますが…。)

もっと、あの、厳しめな例が・例え話が欲しかったなぁ、とは思いますけど。
例えば誰かに大切な人を殺される。虐待される。イジメに遭う。など。

…これは冒頭に佐々木先生が言われた、“避け難い苦しみ”では無いと思うので。
(…うん?どうだろう…。天災とかの突発的な要因でも無ければ、老化などのいずれ確実に訪れるものでも無い。 …とは思うけど、環境的には閉鎖されていて、解決しにくい問題だとは思うので。)

…あぁ、でもこれはサンフランシスコ講和会議のくだりで出た話に繋がるのか。

(だとしても もっとクローズアップして欲しかったなー…)

謝罪や反省、責任の所在が不明なものが多いから、ここが納得いかない っていうのがあるんですけどね。
こと戦争においては、それが正義であると信じて殺人が肯定されているように、
戦争でなくても、個人間の諍いにおいても、それが当人にとっての正しいことだと思っているからこそ、衝突が起きて、傷を負う人がいるワケで。
(番組最後に堀尾さんが『自分が中心であることを捨てることが重要』と仰ってましたけど。)
だから過ちを犯しても、自分が正しいと思ってる限りはこれは解決しない問題で。

パンの話や、会社のポストの話にしても、…まぁ、なんでもいいけど、
正義や常識といったものが暗黙の了解のように、なっていて、疑うことをしにくくてね。
(かといって、自分に都合のいい正義を利用して解釈したりもあるんだろうけどさ。)


無明が全ての…諸悪の根源 …的な話があったけど、これもだから会社のポスト…看板みたいなもの(人を名刺で判断するような)がもうインストールされてるような ね。

たとえば『あの人は ああいう人だ』みたいなものも、それまでの人生で築き上げた、近似値の人を 一つの色メガネで見るような。先生にイヤなこと受けた人は『先生なんて…!』と思ったり、ヤンキーにイヤなことされた人はヤンキー見るだけで脅えてしまったり。で、見た目DQNのヤツは全部そんなんだと思ってうっかりケンカ腰に絡んだら実はいい人とかがたまに居たりしてね。


友達付き合いとケンカの話にしても、
今の時代の弊害があるのか、それとも年を重ねることでなかなか心を開きにくくなっていくのか、本当に相手と向き合うことが無くなっていったりね。




あぁ、ほんと難しいな。
本心というか、『物事の“本当”』が、どんなものかも分からずに衝突したりする出来事がある中で、『ただ水に流せばいい』だけでは無いのなら、どうすれば明らかになるんでしょうね。

それを 他者への想像力を以って推して知るべきなのでしょうか。

イヤなことしてくるヤツも、ホントはさびしいヤツなんだ とか思って?



夜麻みゆき先生が『物事の真実(事実)は一つで、解釈が多数存在する』というような主旨の発言をどこかでされてたような。(違ってたらゴメンです。)

争う相手同士、加害者と被害者 が、解釈を共有できることが解決なのでしょうか。


よくわかりません…。
また次回。

ブログ内リンク : “ブッダ 真理のことば 『第1回 生きることは苦である』を見た。”


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[2011/09/23 07:01] | 100分 de 名著
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100分de名著 ブッダ 真理のことば 『第1回 生きることは苦である』を見ました。

以下、番組内容を大体テキスト化。

講師・佐々木 閑

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 『真理のことば=ダンマパタ』

ブッダが弟子たちのために悟りへの道を423の詩にまとめたもの。

苦しみには2つある。
1つは今度の震災とか『避け難い苦しみ』
それに対して、ダイエットしたいのに という、欲望から出てくる苦しみ、自分の心が生み出す苦しみ どちらの苦しみも なんとか消したいと考えるわけです。

◎端的に表す物語―――。
大富豪の娘だった、パターチャーラーの物語。
パターチャーラーは身分の低い召し使いと駆け落ちし、流れ着いた土地で子どもを生みました。
2人目の子どもを身籠もった時、母が恋しくなり 実家へ帰ろうとしました。しかし、その道中 夫がヘビに噛まれて死んでしまいます。
―――不幸は続きました。生まれたばかりの赤ん坊を鷹にさらわれ 上の子も川に溺れて死んでしまったのです。パターチャーラーは嘆き 悲しみました。その悲しみは正気を失うほどでした。さらに豪雨で実家も流され、パターチャーラーは天涯孤独になってしまうのです。
そんな彼女にブッダが声をかけました。
案じることはありません。この生死の輪廻において、あなたのように 子どもを亡くして嘆き悲しむ 人々の涙は四大海の水より多いのです。

佐々木:「ブッダはパターチャーラーに向かって 生き方を変えよ と言います。パターチャーラーはこれ以上 不幸になりようもないくらい不幸なわけです。 で 本来ならば ひょっとしたら命を絶つかもしれない。 そんなときにブッダは『命を絶つ必要はない』パターチャーラーはそこで 釈迦の教えに従って出家をして尼さんになるんです。最後は本当の安穏と幸せの中で一生を終えたと。」

【ブッダが説いた 生き方とは?】

“ものごとには発生と消滅がある
 ということを理解せずに
 百年生きるよりも
 発生と消滅の原則を見通しながら
 一日生きる方がすぐれている”
    真理のことば 一一三

佐々木:「これは 物事 すべてのものは、生まれ、そして消えていく。従って その中でいつまでも変わらずに 永遠に存在し続けるものは無い ということです。これを“諸行無常(永遠に変わらず 存在するものはない)”といいます。
    すぐれている というのは ここに安楽の道がある ということです。  世の中の、本当の姿を見ないで生きる ということは つまり 間違ったものの見方で生きるということですね。」

佐々木:「ブッダが考えたのは、この世の中が全て苦しみであるならば、そのたくさんの 無限にやってくる苦しみを 自分がしっかりと受け止めて、それを苦しみだと感じないような自分を作らなければならない。つまり 自分自身を変えるということが、ブッダの考えた一番の目的なんです。」

佐々木:「例えば、今回の震災を考えてみましても、現実は 私たちの思いとか 夢というものに関わりなく、粛々と進んでいくわけです。それがそれほど違わないときには私たちってあんまりその食い違いを感じませんけども、今回のように衝撃的なカタチで襲いかかってきたときに、そのあまりのギャップが、我々に恐ろしい苦しみを生み出すわけです。」

“諸行無常を知って 生きよ”

《ナレーション》
世の中は、自分の思いとは関係なく、常に移り変わる。だから苦しみが生まれる と ブッダは説きました。さらにブッダは、その苦しみを解決する方法についても言及しています。

“仏と法と僧に帰依する者は
 四つの聖なる真理
 すなわち「苦」と
 「苦の発生原因」と
 「苦の超越」と
 「苦の終息へとつながる八つの聖なる道」とを
 正しい智慧によって見る”
     真理のことば 一九〇 一九一

佐々木:「仏・法・僧という、三つ合わせたものが、仏教という意味なんですね。 仏教に従う者は この4つの真理を土台として ものごとを考えていこう と。」

【ブッダが説いた 4つの真理 とは?】

四聖諦(ししょうたい)
・苦諦 ・集諦 ・道諦 ・滅諦

・苦諦…世の中は「苦しみ」で満ちている。例えば老化にしても、それは止められない。苦しみを生む原因は 私たちの中にある。

・集諦…「苦しみ」の原因は煩悩である という真理。

・道諦…煩悩を消したときに「苦しみ」が消える。

・滅諦…じゃあどうやって消すのか という「苦」を消すための実践の道を説いたもの。

解決方法には八つの道があるという。それが八正道。

・正見 ・正思惟 ・正語 ・正業
・正命 ・正精進 ・正念 ・正定

・正しいの基準、意味というのは?
佐々木:「たとえば 道徳的に正しいとか、法律に則ってるから正しいとか、ここで言う“正しい”というのは、正しく、世の中のありさまを見る ということです。
    私たちは普通は 世の中のありさまを正しく見ていないんです。その理由は何かというと、いつも 自分を中心に考えるから。自分がこの世の中心にあって、その周りに 私の世界というのがあって、 その周りで色んな世界が動いていて、私こそが世界の中心であるというような錯覚 を持って世界を見ているわけです。なぜならば 世界は私のことなんか何も考えずに動いていくからですね。」

佐々木:「こん中に 突拍子もない修行とか荒行とか いわゆる苦行は無いし。出家しなくたって日常の中の心構えでこれを続けていく。それを一歩ずつ積み上げていく トレーニングの中で、私たちは少しずつ心を変えていくことが出来る。
    それはつまり、煩悩に支配された日常のものの考え方を少しずつ是正していく。  そして本当の世の中のありさまが正しく見えたときに 我々は多くの苦しみから解放される。」

“日常の中で正しく見ることを トレーニングする”

【自我を見つめたブッダ】
「ブッダは普通の人間ですが、どうやって人間の苦しみから逃れることができるかマジメに考え、そしてそれを集中的に修行することによって、その道を見つけだし、もっと大事なことはそれを私たちに教えてくれた。」

・ブッダの半生。
釈迦族の皇子ゴーダマシッタールダとして 16歳で結婚し、子どもももうけ 何不自由なく暮らしていました。
しかし あるとき王宮の外で人々の姿を見たとき彼の運命を変えました。それは人生が 生・老・病・死 という苦しみに満ちていることを知ったからです。それはやがて 自分の身にも起こることに気がつきました。シッタールダは苦しみを克服する術わ得ようと、29歳で出家を決意。修行しながら深く思索を続けました。そしてついに35歳で菩提樹の下で悟りをひらき、目覚めた人=ブッダ となったのです。

「長い修行が終わって、悟りをひらいたときのブッダはたいへんな喜びを感じたわけです。それがここに 歓喜のことば ということで……」

“私は 苦しみの基盤である
 「自分」という家の作り手を
 探し求めて 幾度も生死(しょうじ)を
 繰り返す輪廻の中を
 得るものもなく さまよい続けた
 何度も何度も繰り返される生は
 苦しみである

 だが家の作り手よ
 お前は見られたのだ
 もう 二度と家は作ることはできない
 その垂木はすべて折れ 棟木は崩れた
 心はもはや 消滅転変することなく
 渇愛の終息へと到達したのだ”
     真理のことば 一五三 一五四

佐々木:「家というのは“私”が “私という世界”をつくっている というものです。  私という世界の周りに、私の持ちものだ “私”を中心として組み上げられた 私の 自我の世界。これが 家 というものです。」

瀧口:「家というのは、自分の基準でこう 世界を見てつくり上げてしまった虚構のような世界を、家というふうに…」
佐々木:「そうです。誤った自我意識ですね。
    “繰り返す輪廻の中を 得るものもなく さまよい続けた”というのは、『そういう 私の世界は本当はどこにあるんだ 私中心の世界はどこだ』ということを探して求めるということです。 しかし 見つからない。探しても見つからないから それは苦しみの連続になるわけです。 ところがブッダは自分の体験によって、虚構の世界だということに気がつく。  気がついた途端に、今まで作ろうとしていた “家”の構造は いっぺんに崩れてしまいます。それが“その垂木はすべて折れ 棟木は崩れた”
    気がついてみると、今まで探して求めていた“私”という世界は もう無いじゃないか。そのときにはじめて、“無いものを探していた その苦しみは消える”。  そして本当の安楽がくる。これが釈迦が長い修行の結果 到達した境地なんですね。」

瀧口:「日常に置き換えると どういうことが言えますか?」
佐々木:「たとえば私が、お金持ちだとすると、このお金持ちの状態は ずっと続いていてほしいと思うわけです。
    そうしますと、その世界を邪魔するものが出てきますと それに対してたいへんな憎しみと、そして苦しみと。さまざまな妬みや、そういうものを生み出している そしてそれが現実社会との間で 必ず食い違い、齟齬を起こしますから それが苦しみとなって表れる。こういう その自分中心の世界から苦しみが生まれてくる というのが、ブッダが考えた世界観なんですね。」

“「苦しみ」は自分中心の世界から生まれる”

佐々木:「今 言ったようなこの話は 世界中の全ての人に当てはまる話では無いんです。つまり心の中に苦しみを感じて 今 生きている人生がそういう苦しみに満ちているということを自覚した人にだけ役に立つ考え方です。 だからブッダの言葉は『心の病院』。待っているわけです。自分の方から出かけていって健康な人を引っ張りこんでくる病院なんてのは無いですよね。苦しんでいる人がやってきたときには それを全員引き受けて、まじめに治療する。
    今回の震災にしても、国全体が一つの病気を抱えた重病人になったんだと思います。みんなが心の中になにか こう 苦しいわだかまりを持って生きている。  でその病気はなかなか消すことができないから 物理的に治すことはできないかもしれないけど しかし病気になりながらも、その病気を抱えながらしっかり生きていく道がある ということですね。それがブッダが我々に教えてくれたことなんです。」


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎



というかブッダ関係は、最近 アルボムッレ・スマナサーラ氏の本を読んでるから、大体の知識に関しては補完できてるつもりなんですけど。。。


パターチャーラーの話に関しては、先日 アルボムッレ・スマナサーラ氏の著書、『心は病気』を読んだときにもあったものなので、すんなり入ってきましたし。

それでも、震災のこととかをね。こういう『避け難い苦しみ』を、どう受け止めていけるか っていうコトは、それが肯定のためで大切なんだろうなと思っていてもなかなか心は変わらない。
…これはニーチェの永遠回帰にも言えるけどね。苦しみも繰り返す …っていう点では。


この番組によって、スマナサーラ氏とは違う語り口で得られるものに期待しつつ。
また次回。


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[2011/09/19 12:25] | 100分 de 名著
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100分de名著、ニーチェ、ツァラトゥストラ 『第4回 現代に超人は可能か?』を見ました。

1~3回までは見てなかったんですが、今回初めて見ました。

MC:堀尾正明、瀧口友里奈
講師:西 研
ゲスト:斉藤 環

以下、番組内容を大体テキスト化。↓



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19世紀 ドイツの哲学者ニーチェ。
当時のヨーロッパの価値観を根底から疑い、人間の生きる意味を問い続けた思想家。

ニーチェは主人公『ツァラトゥストラ』を通して自らの思想を説きました。
『神は死んだ』
ツァラトゥストラはキリスト教に基づいた価値観が崩壊していることを人々に知らせます。そしてこれまでの価値観に頼ることなく 創造的に生きる存在……―――“超人”を理想としたのです。
超人になるための最大の関門 それは、苦しみも含め 同じ人生が何度でも巡ってくるという、“永遠回帰”を受け入れることでした。

ニーチェは人間が生を肯定するにはどうすればよいかを徹底的に考えぬきました。


西研:「第1回から第3回まではツァラトゥストラの物語と、そこに込められたニーチェの哲学を読み解いてきたんですけども、今日はですね 現代を生きる私たちに、このツァラトゥストラの思想がどう役立つか ということを今日はテーマにしていきます。」



スイスのシルス マリヤにニーチェハウス(ニーチェ記念館)がある。ニーチェが滞在して執筆した部屋がある。
ツァラトゥストラは当時 人々の理解を超える内容から、ほとんど見向きもされない書でした。最終巻に至っては、わずか40部ほどニーチェが自費出版しただけだったといいます。

その後ニーチェは精神を病み、思想家としての活動が全く出来なくなります。
 
病に倒れた晩年から20世紀にかけて、ニーチェの思想は次第に認められるようになります。
19世紀の古い価値観を打破したいと考えたヨーロッパの新しい知識人が、ニーチェに共鳴し始めたのです。
ところが1930年代になると、ナチスによってニーチェの思想が歪められました。“強者が弱者を支配することを肯定する思想”と誤って解釈がされ、ユダヤ人迫害の正当化に利用されたのです。

第2次大戦後、ニーチェに再び光が当てられます。
近代の価値を転換する思想として、特にフランスの哲学者や批評家などに注目され、
《脱構築、蕩尽(とうじん)の哲学、ポスト・モダンの哲学、存在論》
戦後の新たな思想の源流となったのです。


 
【現代の私たちの生き方に ニーチェの考えをどう活かしていくか。】

堀尾:「斉藤さんは ツァラトゥストラという本、どのように捉えてらっしゃいますか?」
斉藤:「学生時代に手に取ったのですが、学生時代というのはひねくれたところがありまして…。アポロン的な 理性的な哲学じゃなくて、もうちょっと享楽的なところというか…いわゆるディオニソス的なというか。そういうところに魅力を感じたというカタチで入っていきました。」

アポロン的…理性的、論理的

堀尾:「人間的に物事を考えよう―――…っていうのが…」

ディオニソス的…感情的、享楽的
 
斉藤:「そういったものを享楽的に捉えるといった…
    ニーチェは晩年 精神を病んだりとかですね、ちょっとこう狂気を孕んだところが…まぁ、まだ…免責の余地から… ちょっとこう ニュアンスを感じる あとづけかもしれませんが。
    そういうのに我々は惹かれてしまう という困った性癖がありまして。(笑)  狂気に至るまでの天才と紙一重というかですね、そういう発想で魅されてしまうというのがたぶんあったと思いますね。」

堀尾:「斉藤さんがツァラトゥストラの中から、これぞ名文!というものを―――。」

斉藤:「“末人(まつじん)”という…“ラストマン”という人々にかかわるものの描写が――…。」


 われわれは幸福を発明した―――
 「末人」はそう言ってまばたきをする。
 彼らは生きるのにつらかった土地を去った。
 ぬくもりが必要だからである。
 さらに彼らは隣人を愛し、隣人に体をこすりつける。
 ぬくもりが必要だからである。
                  「ツァラトゥストラの序説」より

斉藤:「先ず 非常に毒のある表現といいますか――…。
    まず“まばたき”をするとかですね――いかにも動物的というかですね、小人物というかですね…、すごく軽蔑される存在という印象を与えてくれてますね。単なる快感ですね。 緊張を解放するだけの――リラックスをひたすら目指すという。
    “ぬくもり”と書いてあっても 決していい意味ではなくて、単純にこう ゆるい世界でね、まったりと生きたいというですね。そこだけ聞くとといいように聞こえますけど、まぁ、超人のように自分を鍛えていくような、きっかけはそこには無いわけですよね。」

堀尾:「これは今の世の中と通じると感じるところはありますか?」
斉藤:「うん。 やっぱりある種の予言の書というか、やっぱ今の人の一部の人ですけどね。在り方が限りなく末人的なライフスタイルに近づきつつあるんではないかと。」

堀尾:「先生、当時からこの末人のくだりというのは好きだったんですか?」
斉藤:「これを好きというと誤解を招くおそれも…(笑)」
堀尾:「好きというか 気になったというか…。」
斉藤:「なんというより、まず自分のことを言われてる感じというか。おれはいずれこうなっちゃうんじゃないか、っていう そういう懸念を一番青春期に感じました。」
堀尾:「当時の学生はそうやって読んだのかもしれませんね。」
斉藤:「そうかもしれませんね。」

【それぞれの”超人”論】

堀尾:「“超人”という思想、お2人にとって超人とはどういうことなのか。」

西研:「超人というのは、究極ポジティブな存在ですよね。常にクリエイティブに生きていく。ルサンチマン(恨み、妬み、嫉妬の感情)なんか関係ないっていう。そういう存在ですよね。
    超人を目指す ってニーチェは言うんだけど、ぼくはねぇ、あの、よろこびの方向に向かっていけ、とか、高めあっていけ というメッセージはすごくいいと思ってるの。でもニーチェの書き方は、一人で頑張れみたいなところがあるんですよ。うん。一人でがんばって強くなる。ストイック。
    でも、人が本当にクリエイティブになるときってどうなんだろう。ニーチェの言うクリエイティブですよね。 それってお互いが自分の感情を出して、それをちゃんと受け取った とか、ちゃんと返ってくる そういう信頼があるところで、クリエイティブというのはものすごく出てくると思うんですよ。
    たとえば まぁ、古い話だけど、ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーが曲作ってるときに、も-最高だった ってこと言ってるんだけど、お互いの間でどんどん響いてね。コールアンドレスポンス。 こっちが呼べば向こうが応える。そう 刺激し合って ガーっと高まっていく。そういうところにね。超人のほんとの具体的な形があるような気がするんですね。
    だから お互いの感情をちゃんと交換し合うとか、そういうつながりの中で超人を目指す。うん まぁ、言わばしなやかな超人。そういうイメージを持ってた方がいいような気がします。」

     “しなやかな超人”を目指せ



斉藤:「あの、私は専門がひきこもりなんですけども、私は超人というのは完璧なひきこもりのことだと思います。ちょっと西先生の真逆みたいな感じになっちゃうんですけど。
    ひきこもり ってのは仕事もしないし、人間関係も無いし、業績も無いし。そういう自分を全肯定できるかどうか と、そこが超人の非常に重要な条件なんじゃないかと。」

瀧口:「ひきこもりの状態で良い っていうことなんですか?」
斉藤:「そうです。 そのひきこもってる自分を、いかなる価値基準に照らさないで肯定できるかと。無根拠に肯定できること。」

瀧口:「なんか、仙人みたいなイメージが今ちょっと浮かんできたんですけども…。」
斉藤:「そうです。禅僧とか 仙人とか。」

西研:「ニーチェの思想のすごくいいところに、どんな自分が その失敗しちゃっても、その自分を絶対見捨てちゃダメなんだ。そういうこと言うんだよね。
    やっぱり自分が自分の最大の味方で、そこを肯定できなきゃいけない思想ってニーチェの中にありますよね。」

斉藤:「ただ 普段若い患者さんを中心にですね、接してて思うのは、ま それこそ ニヒリズム(「すべてのものは無価値である」とする考え方)じゃないですけども、否定が力を持ちすぎている。いじめにしても、ニートにしても、いわゆるロストジェネレーションと呼ばれる、まぁ、ワーキングプアなんかも含まれてますけどね。若い世代の…まぁ、意識の中にですね、肯定をする力が弱まっている気がするんですよね。   すごく危険……危惧しているところなんですよね。そういうとき この、とりあえず、自分を力強く肯定するところから始めよう という考えは、 すごく意味があると思いますし、臨床をやっていても……ま、人間関係でもいいですけど、何かちょっとしたキッカケでも自分を肯定することが出来るとですね、こもってた人が動き出す ってのはよくあることなんですよね。
    肯定感が最初にあると、医学的に考えてもですね、それが次の展開に繋がるという実例はいっぱい経験してきましたのでね。  なんとかそれを持ってほしいな と。願望も込めてですね。“究極超人”―――…。

    結局ですね、ひきこもってる人が抜けられないのは世間体を気にしたりだとか、世間のものさしに縛られてるから出れないんですよ。」

瀧口:「今、問題になってる ひきこもりというのは、自分自身を 自分のものさしで評価できないところが一つ問題に――…」
斉藤:「まさに仰るとおりで。社会的な基準だけに依存しているので、自分をどうしても肯定できないんですよね。ずーっと自分を否定しながら毎日を過ごしている。とても苦しいわけですよ。
    逆に 全部肯定できた瞬間に、自由になるんですよ。パラドックスなんですよね。それこそツァラトゥストラが山から下りたみたいに。肯定が完成したら こもってられなくなっちゃうんですよ。結果的に。」

堀尾:「多くの人と交わる ってことも、できるようになるわけですか?」
斉藤:「できちゃうわけです。しようと思ってするわけじゃないんですけど、ま、自然ななりゆきでそういうふうになってしまうというか。」

西研:「斉藤さんどうなんでしょう。世間の基準から自分を見てることで 苦しいし、外にも出られないけど、じゃあ 自分自身のありのままをね 全部肯定するためには――、実は「アンタそれでいいよ」と言ってくれる誰かがいらないと思うんですけど。どうです?」
堀尾:「それは精神科医の仕事なんじゃないですか?」
斉藤:「やー、我々が肯定しても、それは仕事になっちゃうんで――。なかなかそれを素直に受けてもらえなくなるんですけど。
    やっぱ承認の問題は大きいわけで。みんなが承認を求める時代になっているとも言えますから。承認してもらえて肯定する。という生き方が普通なんですけども、ここは敢えてニーチェ的に、 承認抜きで自分を肯定せよ。と。言いたいところなんですよね。とりあえず とっかかりとして です。


    “承認抜きで 自分を全肯定せよ。”




【ニーチェ 人生相談室】

瀧口:「あのー、私 今 大学生なんですけど、今 就職氷河期って言われてると思うんですけど、でも、それでも大企業に行きたい って人がすごく多いんですね。中小企業でももちろん魅力的なところ あると思うんですけど、やっぱり安定性とか、お金の面とかもあって、大企業に集中してしまって、それがさらに 就職氷河期を加速させてるんじゃないかって感覚もあるんですけど。   自分が本当にやりたいこと っていう――ニーチェの言う超人のように、今 こういうことがやりたいんだ って内側から溢れてくるようなものっていうのを、みんな見つけきれてない…なかなか。
    っていうのと、どうやったらそれを見つけて、こう“超人”みたいになっていけるのかな、 っていうところがあれば―――…。」


斉藤:「就活も婚活もそうなんですけど、どうしても比較の発想になっちゃうんですよね。こっちよりも こっちが大きいという。 こっちが安定している。福利厚生がいいとかですね。比較の話ばかりしていると、私は”末人”的になっていくというか。どっかしらで自分が置き去りになってしまう感じがするんですよね。
    で、精神科医として言うんですけも、精神分析的には、まぁ、人の正しい生き方というのがあってですね。それは何かっていうと、自分の欲望をあきあめないことなんですよ。最後まであきらめない。絶対譲歩しちゃいけないんですよ。これはもっとも正しいとされていて。
    ただ、一番難しいのはさっき瀧口さん仰ったように 何が欲しいか分からない というのが最大の難点なんですよね。すごく多い。だから自分探しは 自分の欲望探しで。結構難題なんですよ。    だけど、比較の発想をだんだん剥ぎ取ってですね、それをやめていけば、ひょっとしたらそれは見つかるんじゃないかと思ってるんですけど。
    やっぱり どっぷりと 受験のときからですね、その就職→結婚に至るまで、比較の発想に慣れすぎていると、欲望が逆に見えなくなってしまう懸念があるので、なんとかそこを一回リセットするようなですね、キッカケをですね 掴んでほしいなと思うんですけどね。」


西研:「ぼくもすごく共感ですね。
    やっぱり普通でなきゃいけないとかね、普通より もうちょっと良いほうがより良いでしょうけど、あの 根っこにあるのは「脱落したくない」っていう気持ちだと思うんですよ。「落っこちたくない」ね。
    世間並みのところから「損したくない」。そういうことばっか考えますよ。 それで就職――…だんだんうまくいかなくなったりすると、全世界から自分が否定されたような気持ちになってくるのね。わかりますよね 気持ちは。
    でも、ニーチェ的に言うとね、世間から評価される前に、どんなことやったら自分ワクワクするの? どれやったらオレ燃えられるかな? っていう、やっぱそこ考える必要があって。ぼくね、会社で自分のワクワクを実践するくらいに思わないとダメかもと思うわけ。それ理想論だけど。 でも やっぱり どうやったらワクワクできるの?っていうところから考え始めないと いけないと思うんですよね。」

瀧口:「「脱落したくない」っていうと、マイナスから始まっちゃう考え方になっちゃう―――…」
西研:「そうそうそう。その通り。」

堀尾:「ぼくね前回 ニーチェの『運命愛』っていうのを説明して下さったときに、要するにニーチェは 人生は全て運命であると。その運命を受け入れられれば、肯定できれば、こんなに喜びに満ちたものはない っていう考え方じゃないですか。   だからどんな障害があっても、それも運命で、それをプラスに考えられる っていうね。究極のプラス思考。 それから、今 たとえば ま、就職・受験に失敗した。それもプラスに導く何かがあるんだって思えれば すばらしいことですよね。」

斉藤:「肯定の考え方 いろいろありますけど、ぼくは 偶然を必然に感じられる才能だと思うんですよね。そういうキッカケとして ニーチェを読んでみるというのも いいかもしれませんね。」


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超 面白かったです。

たしかに、自己肯定感は、弱まっていると思います。
それは 安易に人と繋がることの出来るツールがあるから という、今の時代だからこそ、というのに限らないとも思いますが。

で、個人的に惹かれた言葉は、
『就活も婚活も、比較の発想』とかってくだりのところが。

そう、結局、ここなんですよ。“世間”とか“普通”とか“社会的”な…そんな価値観に無意識下で依存しているんじゃないか? ってコトがですよ。
でもね、仕事とか…そういうのは“誰か”の“社会的”な価値観に受け入れられてないと、成り立たないワケですよ。いや、勿論 そんなのは切り離して考えて然るべき…って視点もありますが、幼い頃から生存のレースに乗せられてる人間にとっては、生産と消費活動を行わないなんていうのは、社会から隔絶された存在でゴミ同然なんだって思えるんですよ。

社会の枠組みで生きることが、生きることを肯定する全財産みたいな考え方になってしまっていて、だから誰かに,何かに必要とされていないと、自分が肯定できてない。


これがあまりに多い。
というか、これが多分全てだと思うんです。
すべての生きてる人は。


若い人について 主にピックアップされてたような気がしますけど、私自身、色んな年代の方とお話しした経験からですが、そんなものは関係ないと思うので。


『自分の欲望をあきらめない』とありましたけど、これもね、それまでの、比較の世界の価値観がインストールされていて、たとえば、自分が何かを好きなことも、「多くの人がこれを好きだから好き」というのとか、また逆に「マイノリティだからこそ、好き」とか。その「『マイノリティが好き』なオレが好き」という考えもあったりとか。
自分の感情が、誰かの立脚した価値観に依存してるから構築されたんじゃないのか? とかをね。考えたりするんですよ。

で、西さんと斉藤さんは“しなやかな繋がり”とか、また“ひきこもり肯定”とかありましたけど、本質は全く同じだと思うのです。
西さんの場合は、他人と真ッ剣に関わること。(感情の交換をすること。お互いの思いを表出し合うこと。)で、斉藤さんの場合は、徹底して自分に向き合うことだと思うの。

結局それは“自分”の根源・源流を知るキッカケとなるのでしょう。

ただ、価値観の合う友人・知人となぁなぁな語り合いをするのでもなく。
ただ、自分の価値観を正当化するためだけに殻に篭って他人を否定してばかりでもなく。

(自分は自分で完璧で在るし、他人は他人で完璧で在るのだから。)

(けど、他人の完璧はなかなか認めたくない感情が出てきてしまうと思うけどね。それは自分の完璧を肯定しているからこそ なのかもしれないけど。…このあたりが難しいからこそ、おそらくナチスによって歪められた部分があるのかもしれませんけどね。『支配が正しい』という誤ったことがね。)

全ての価値観を解(ほど)いて、確立した自分を肯定すること。
これは難儀な道のりかもしれませんけどね…。

私自身としては、運命論みたいなものはまだ肯定できない、というか疑問なので。
マイナスな出来事自体をどう捉えるか という問題(不慮の出来事による死や、心身に大きな傷を負わせるような出来事)が起きたとき、これも“運命”だと、“必然”だと受け入れられるかどうか …というのは自信が無いですので。。。
永劫回帰が苦しみも含めての肯定だから、多分 “私”が苦しみや不都合を肯定出来てないのかな。被害者感情を持ちたい(自分の優位性“だけ”を常に考える)からかもしれないけど。
(…どうしても こういった場合『たられば』を考えてしまいますから。だからニヒリズムになってしまうと思うんですよ。全て無駄・無価値かと、ね。)

これを超えたら、“超人”に なれるんでしょうかねぇ。

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[2011/09/06 12:04] | 100分 de 名著
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